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忖度しない人への怒り

ここのところの私の不調は、
過去の経験が影響して未だに自己否定に陥り、エネルギーが枯渇してしまった
というところまで、分析が進みました。
そこでなぜ、私がそこまで攻撃を受けやすいのか考えたいと思い、こんな本↓を読み始めました。

平気で他人を攻撃する人たち 加藤諦三著

加藤先生によれば、
『直接対象に発散できない怒りや不満を持つ人は、その欲求不満や怒りを、自分より弱い人に向けて発散することで自分を保っている。
その怒りを向けられた側は、自分自身に落ち度は無く、理由も意味もわからないので、神経症にならざるを得ない』
のだそうです。
まさに『当たり屋』です。
当たられる側がどうして選ばれたのかは、『当たる側に立場が弱いと勝手に認定されてしまった』ことが原因なので、当たられる側は、当たる側の不当な怒りを強く拒否するしか無いのだそうです。

しかし、その攻撃方法が直接的な暴力暴言なら拒否できますが、例えば『正しいルールを教えている』『無視しているようだが、たまたまタイミングが悪かったようにも見える』『嫌がらせをされているようだけど、犯人はわからない』というようなものだと、面と向かって「やめてよ!」と言うことができません。
さらに周りも「何となくあの人、いじめられているように見えるけど、単に間が悪いんだよね。もう少し要領よく動けばいいのに」と思いがちです。
そこがかなり巧妙なので、ターゲットになった側が「気にし過ぎる自分が問題」とか、「自分に工夫が足りないからだ」と悩んでしまうことになりかねません。
加藤先生は、『攻撃を受けた側には何の落ち度も無いが、弱みをつかまれやすい傾向がある』
というような分析をしています。

この本の内容を受けて、私が全く違う集団で攻撃対象になりやすいのは何故か?と言うことを考えてみました。
確かに私は言われるままに受け入れてしまう弱さはあります。しかし、私よりも大人しく素直な人は、むしろ攻撃対象にはなりません。
ということは、ただ言い返さないということだけではなく、私に何か目立つところがあるから攻撃対象になりやすいのでは?と思うのです。

そこで振り返って気づいたのは、私がどんな立場の人に対しても『気を遣わない』性格だからではないかということです。

私は、自分でも公平な立場で人と接しようと心掛けています。
それは私のポリシーで、例えば子どもや障害のある人とも同じ立場で接するのではあれば、社会的地位のある人に対しても、忖度なく物申したいと思っているのです。
もちろん相手の状況に配慮してというのはどちらもわきまえているつもりです。

これまで私が攻撃された事例はどれも『上の立場の者に気を遣わないことで、集団の輪を乱す』とみなされて、同位集団のリーダー的な人物から嫌味や嫌がらせを受けたということが共通していることに気づきました。

仕事に関して言えば、上司に対してあけすけな意見を言う、上司が言語化していない部分への気遣いがない、上司に許可を得ないで動いた(この許可というのが本当に細かいところ)ということを、当の上司ではなく、その下の中間管理職から指摘されるわけです。
そして当の上司と直接話すと「え?そんなこと気にしないで大丈夫だよ」と言われるようなことなのです。

習い事に関しては、生徒のリーダー的な人から、「先生が良いと言っても、生徒として先生に気遣うのは当然」と指摘されてしまうわけです。

仕事や習い事に直接関係のない『忖度』ができないことで、上司と部下をつなぐ『中間管理職』的立場の人から指導される。
その指導に対して私の理解が悪いように見えたり、はみ出したことを繰り返しているとみなされると、それが怒りや攻撃に変わっていく。
そういうことが全てに共通していると気づいたのです。

加藤先生は、『攻撃行動は、攻撃する人の不満や怒りを別の対象に置き換えているのだ』としていますが、そうなると、私を攻撃してきた人はみな、『理不尽な忖度を強いられてきた人たち』なのではないかと思い当たりました。
攻撃してきた人の背景や言動を思い起こすと、確かに思い当たる節がたくさんあるのです。
彼ら、彼女らは、すごく真面目に『無理』をしてきた。だから彼ら彼女らの行動は、一見『正当的』な指導に見えるのです。
そうすると、攻撃されている『私』こそ、不真面目で不謹慎な問題児と思われてしまいます。
結局味方してくれる人は現れず、私個人が反省して行動を変えないと事が収まらないのです。

これは、かなり深刻な『日本の病理』なのではないでしょうか?

ある集団のトップがいて、その下にトップを支える中間管理職的立場の人がいて、その下に大勢の部下がいる。
組織の構造というのはそういうピラミッド型になっていることがほとんど。
トップは神ではなく人間なのですから、時には間違いも起こします。
またその組織を立ち上げた時のエネルギーもそう長くは続かずパフォーマンス力も落ちてきます。
そうした時、トップを同じ立場で支えられる共同経営者的な人が複数居ないと、その組織はトップの能力とともに衰退、崩壊していくのです。

しかし『忖度』こそが最重要と考えて、トップの間違った行動も指摘しない。最下位の部下が指摘しようものなら、よってたかって攻撃してその意見を潰すという習慣を身につけてしまった場合、部下もろともに組織は崩壊するでしょう。
日本というのは、そういう組織のあり方が常識としてまかり通っている。
組織だけでなく、家庭においても、父親を頂点として父親に物申す子どもを潰してしまう。

こういうことが未だに、いや今だからこそ病的にそこにしがみついている人たちが可視化されてきて、新しいやり方を取り入れようとする人間をよってたかって潰そうとする。そんな心理が強く働いているのかもしれません。

新しい時代の流れにのれない。
これまでの地位や立場にしがみついていたい。

私はそういう人を実は軽蔑しているのです。
その軽蔑の眼差しも感じ取られているのかもしれません。
私を排除した組織は、長くは続かないか、すでに内部から崩壊しつつあるんだろうなと思い、割り切ることにしました。

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