遠野遥さん『破局』読書感想
この本は、どこかで読んだ書評の中の「肉食なのに、乾いている」という表現がしっくりくる内容の、不気味でありつつ、どこかからっとしている本です。この前、遠野さんの『改良』を読み、他の本も読んでみようと思い、『破局』を図書館で借りてきました。すごく整理されたきれいさなので、たぶん本名ではないのだと思いますが、遠野遥という名前もなんだか好みです。何がなのかは不明ですが、遠く遥かに、ってことでしょうか。わたしの本棚にある、磯崎憲一朗さんのエッセイ本に遠野さんとの対談があったことを思い出したので、それも絡め文章を書いてみます。
あらすじとしては、主人公の陽介が、ラグビーと女性関係の中で、少しずつ破滅に向かうというストーリーです。破局というより破滅という言葉が近い印象ですが、そこを「破滅」にしないあたりも、乾いた話に合わせたニュートラルなタイトル設定に思えます。陽介はどこか感情が薄く、自分の感情を立場に合わせ点検しつつ行動に移し、物語が進んでいきます。自分の感情に疑いを向け、緻密に点検していくあたりは『改良』と似ていますね。このあたりの描き方は、遠野さん独自の目線なのだと思います。
磯崎さんのエッセイでは、遠野さんは夏目漱石の書き方に注目し、小説を執筆している時期があったことを言っています。漱石の前期三部作の『三四郎』『それから』『門』や後期三部作の『彼岸過迄』『行人』『こころ』を何度も読んでいたそうです。確かに遠野さんの小説は描写を長くとっていて、漱石と通じるところがある感触がします。
後期三部作の『彼岸過迄』には、下記の描写がありますが、遠野さんの文章にも共通点が見られます。
上記の『一切がXである』というのは、一切が分からないという意味なのだと推測されますが、遠野さんの文章にも「聞いたことがないので、私には分からない。」という書き方が確か何度か出てきます。漱石の文章は、それについては分からないが、他のことは興味がある、という流れになるので、分からないという助走があり、分かることの説明に移行するため、そういったリズムをつけるためにこういう書き方をしているのかもしれません。また、修飾語があまりないフラットな文章であるところも似ています。
フラットな書き方で、修飾語や比喩はあまり出てこない書き方ではありつつ『破局』の主人公である陽介が、恋人の灯と見るゾンビ映画は描写に時間がさかれています。これを小説の見せ場にしているのだと考えられます。血液が飛び散りゾンビが人を食らい続ける描写と、電灯はついているが中に人がおらず、着飾ったマネキンだけがいて、映画の光が灯を白く照らしている。赤色と白色を、色彩的に印象づけて描いています。映画が見終わったあと疲れている陽介が、灯に対し「俺は何度でも蘇るよ」という、じぶん自身を重ね合わせた発言をしていることから、この小説に対するひとつの答えがここにあると思いました。
陽介はゾンビに重ね合わせみることができます。広い意味で見れば、現代は人間関係が希薄と言われる事の比喩という見方もできます。こういった内容であれば、この後、陽介の幼少期の人間関係だとか、そういう分析を細かくする小説は多いと思いますが、それをせず突き放し見ているのも、この小説の特異な部分と思いました。
遠野さんは他の本も出しているようなので、また読んでみたいと思います。
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