母というひと-041

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父は、相変わらず転勤を繰り返していた。
人よりも少しばかり早い年齢で出世し始めたので
激しくあちこちへ動かされた。
家族も一時期は支局の建物の上階に一緒に住んだ。
報道は、何か事件が起これば
24時間365日休みなく対応しなければならないからだ。

だから、私が中学に入ると同時に
母が1ヶ月交代で家と、父の赴任先を行き来していた。

母は体調が不安定で、よく横になっていたし
朝も滅多に起きてこなかった。
11歳で父と離れ
13歳で母とも微妙な距離ができ始めた私は
その頃いじめにあっていたこともあり
少しずつ気持ちが閉じて
母が求める心理的な欲求を満たせる存在には育たなかった。

印象に残っているエピソードがふたつある。

ある日、母がいきなり私を怒り始めるのだ。
「あんたは優しくない」と。

何の話かといえば、母がサングラスをかけて帰宅した日に
私が「どうしたの」と聞き
母が「なんでもない、聞きなさんな」と不機嫌に返す。
私がそれ以上を聞かなかったことを
いきなりなじり始めるのだ。

母はその日、逆まつげの手術を受けたらしく
それを隠すためにサングラスをかけていたと言う。
「お兄ちゃんは、大丈夫かねって気を使ってくれたのに
 あんたは何も言わんかった」と。

またある日も、「あんたは優しくない」と言い出す。
それは母が家にいる間の朝の話だ。

「お兄ちゃんは、私が寝とっても
 ちゃんと「おはよう」って言うてくれるし
 「行ってきます」も言って出て行くのに、あんたは何も言わん」と。

どちらも、私なりに気を使ってのことだった。
聞かれたくないことは聞かない方が優しさだと思ったし
朝は起きれないからと眠ってる人に無理やり声をかけて起こす気もなかった。

さすがに腹が立ったが、言っても通じないと黙って聞いた。
母から見た息子と娘の姿は
<男なのに優しい息子>と
<女なのに気が利かない娘>へと
着々と育って行った。

彼女が求めていたのは
何も言わなくても分かってくれる家族愛だった。
不運な境遇を共有しているかのような息子が目の前にいたために
そこに生まれた強い共感を他の家族にも求めるのは
もしかしたら成り行きとしては当たり前なのかもしれない。

でもそれは、その頃の私には理解ができなかったし
おそらく、世間的に見てもかなり高度な要求のように思う。

そしてそれを与えてくれるのは、母にとって
パートナーである夫でも
同性の娘でもなく
愛する息子たった1人だったのだ。

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