見出し画像

絵本 de 原民喜『小さな庭』

作画:茜町春彦
原作:原民喜

A brief personal history of Hara Tamiki.
1905, Hara Tamiki was born in Japan.
1933, he married with Miss Nagai Sadae.
1944, she died of a disease.
1951, he died by his own hand.


(庭)

暗い雨の ふきつのる、あれはてた庭であった.

わたしは妻が死んだのを知って おどろき泣いていた.

泣きさけぶ声で目がさめると、妻は かたわらに ねむっていた.

…その夢から十日あまりして、ほんとに妻は死んでしまった.

庭にふりつのる まっくらの雨が いまはもう夢ではないのだ.


(そら)

おまえは雨戸を少しあけておいてくれというた.

おまえは空が見たかったのだ.

うごけない からだゆえ 朝の訪れが待ちどおしかったのだ.


(閨)

もうこの部屋には ないはずの おまえの柩がふと仄暗い片隅にあるし、

胸のときめきで目が覚めかけたが、

あれは鼠のしわざ、たしか鼠のあばれた音だと うとうと思うと、

いつの間にやら おまえの柩も なくなっていて、

ひんやりと閨の闇にかえった.


(菊)

あかりを消せば褥の襟に まつわりついている菊の花のかおり.

昨夜も今夜も おなじ闇のなかの菊の花々.

嘆きをこえ、夢をとだえ、ひたぶるに くいさがる菊の花のにおい.

わたしの身は闇のなかに置きわすれられて.


(真冬)

草が茫々として、

路が見え、

空がたれさがる、

…枯れた草が濛々として、白い路に、たれさがる空…

あの辺の景色が怕いのだと おまえは夜更に おののきながら訴えた.

おまえの眼のまえにはピンと音たてて割れそうな空気があった.


(沼)

足のほうのシーツがたくれているのが、蹠に厭な頼りない気持をつたえ、沼のどろべたを跣足で歩いているようだとおまえはいう.

沼のあたたかい枯葉がしずかに煙って、しずかに睡むってゆくすべはないのか.


(墓)

うつくしい、うつくしい墓の夢.

それは かつて 旅をしたとき 何処かでみた景色であったが、こんなに心をなごますのは、この世の眺めではないらしい.

たとえば白い霧も嘆きではなく、しずかに ふりそそぐ月の光も、まばらな木々を浮彫にして、青い石碑には薔薇の花.

おまえの墓は どこにあるのか、立ち去りかねて眺めやれば、ここらあたりが すべて墓なのだ.


(ながあめ)

ながあめの あけくれに、わたしは まだ たしか あの家のなかで、おまえのことを考えて くらしているらしい.

おまえも わたしも うつうつと仄昏い家のなかに とじこめられたまま.


(岐阜提灯)

秋の七草をあしらった淡い模様に、蝋燭の灯は ふるえながら呼吸づいていた.

ふるえながら、とぼしくなった焔は底の方に沈んで行ったが、今にも消えうせそうになりながら、また ぽっと明るくなり、それからヂリヂリと曇って行くのだった.

…はじめ岐阜提灯のあかりを悦んでいた妻は だんだん憂鬱になって行った.

あかりが消えてしまうと、宵闇のなかに ぼんやりと白いものが残った.


(朝の歌)

雨戸をあけると、待ちかねていた箱のカナリヤが動きまわった.

縁側に朝の日がさし、それが露に濡れた青い菜っぱと小鳥の黄色い胸毛に透きとおり、箱の底に敷いてやる新聞紙も清潔だった.

そうして妻は清々しい朝の姿をうち眺めていた.

いつからともなくカナリヤは死に絶えたし、妻は病んで細って行ったが、それでも病室の雨戸をあけると、やはり朝の歌が縁側にきこえるようであった.

それから、ある年、妻はこの世をみまかり、私は栖みなれた家を畳んで漂泊の身となった.

けれども朝の目ざめに、たまさかは心を苦しめ、心を弾ます一つのイメージが まだすぐそこに残っているように思えてならないのだった.


(鬼灯図)

なぜか私は鬼灯の姿に ひきつけられて暮らしていた.

どこか幼い時の記憶にありそうな、夢の隙間がその狭い庭にありそうで…

初夏の青い陽さす青鬼灯のやさしい蕾.

暗澹たる雷雨の中に朱く熟れた鬼灯の実.

夏もすがれ秋はさりげなく蝕まれて残る鬼灯の茎.

かぼそく白い網のような繊維の袋のなかに照り映えている真冬の真珠玉.

そして春陽四月、土くれの あちこちから あわただしく萌え出る魔法の芽.

…いく年か わたしは その庭の鬼灯の姿に魅せられて暮らしていたのだが、さて、その庭のまわりを今も静かに睡って ただよっているのは、妻の幻.


(秋)

窓の下に すきとおった靄が、葉のちりしだいた並木はうすれ、固い靴の音がして いくたりも通りすぎてゆく乙女の姿が、しずかにねむり入った おんみの窓の下に.


(鏡のようなもの)

鏡のようなものを、なんでも浮かび出し、なんでも細かにうつる、底しれないものを、こちらからながめ、むこうにつきぬけてゆき.


(夜)

わたしがおまえの病室の扉を締めて、廊下に出てゆくと、長いすべすべした廊下に もう夕ぐれの気配がしのび込んでいる.

どこよりも早く夕ぐれの訪れて来るらしい そこの廊下や階段をいくまがりして、建物の外に出ると澄みわたった空に茜雲が明るい.

それから病院の坂路を下ってゆくにつれて、次第にひっそりしたものが附纏って来る.

坂下の橋のところまで来ると街はもうかなり薄暗い.

灯をつけている書店の軒をすぎ電車の駅のところまで来ると、とっぷり日が沈んでしまう.

混み合う電車に揺られ次の駅で降りると、もうあたりは真暗.

私は袋路の方へ とぼとぼ歩いて行き、家の玄関をまたぎ大急ぎで電燈を捻る.

すると、私には はじめて夜が訪れて来るのだった.

おまえの居ない家のわびしい夜が.


(頌)

沢山の姿の中からキリキリと浮び上って来る、あの幼な姿の立派さ.

私はもう選択を誤らないであろう.

嘗ておまえがそのように生きていたということだけで、私は既に報いられているのだった.


(かけがえのないもの)

かけがえのないもの、

そのさけび、

木の枝にある空、

空のあなたに消えた いのち.

はてしないもの、

そのなげき、

木の枝にかえってくる いのち、

かすかに うずく星.


(病室)

おまえの声はもう細っていたのに、咳ばかりは思いきり大きかった.

どこにそんな力が潜んでいるのか、咳は真夜中を選んでは現れた.

それは かたわらにいて聴いていても堪えがたいのに、まるでおまえを揉みくちゃにするような発作であった.

嵐がすぎて夜の静寂が立ちもどっても、病室の嘆きは うつろわなかった.

嘆きはあった、…そして、じっと祈っているおまえの けはいも.


(春)

不安定な温度のなかに茫として過ぎて行った時間よ.

あんな麗しいものが梢の青空にかかり、

―――それを眺める瞳は、おまえであったのか、わたしであったのか―――

土のおもてに満ちあふれた草花.

(光よ、ふりそそげ)かつておまえの瞳をとおして眺められた土地へ.

〈了〉


参考文献:原民喜全詩集(2015年7月16日第1刷発行 原民喜 岩波文庫)
使用画材:ArtRage 3 Studio Pro(アンビエント社)Photoshop Elements 10(アドビシステムズ株式会社)
初出:パブー(2015年10月22日) パブー投稿作品を修正して移植しました.