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週刊誌という「世界」#7 任侠と人情の間~FRIDAY編 最終回

女性は「失礼します」と言った


「飯島秘書官について取材したいので、記事の詳細についてお聞きしたい」

講談社の2階、打ち合わせスペースでM記者はこう切り出した。スーツ姿でいかにも敏腕女性記者という雰囲気のM記者には独特の圧があった。

フライデーではその後も取材を続け、小泉首相の懐刀と言われた飯島氏についていろいろ調べあげていた。週刊文春記者が、つまりは「その手の内を明かして欲しい」というのだ。他社の記者から取材源も含めて聞かれたことについては驚いたが、M記者が凄腕である所以は、渦中に迷いなく飛び込むことが出来るところなのだろう。

Kデスクのほうをチラリと見たら、「いいでしょう☆」と目配せされた。

そこからM記者とは定期的に情報交換をすることになった。

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横須賀の小泉家

一方で横須賀取材の方は苦戦していた。小泉青年がロンドン留学した訳として地元で囁かれていた実態までは突き止めた。横須賀政界の重鎮によると「後援者の娘を草叢でレ●プした」というのだ。この話は一部後援者のあいだだけで秘された。小泉青年は何か追われるようにロンドンへと留学。地元から姿を消す。留学から帰国時、小泉青年はサングラス姿だったという。

そこで僕らは玉石混交する情報を整理することから始めた。まず当時、娘がいたであろう後援者を絞り込み、各種情報を頼りに地図で分析した。すると諸条件に該当するのがA地区のXさんという後援者であることがわかった。しかし、当時の事件を示す資料がある訳ではなく疑惑は疑惑でしかない。取材はいいところまで迫っていたが、決定打に欠けた。


同疑惑については講談社週刊現代などで活躍されていたジャーナリストの松田賢弥氏も取材しているということが耳に入ってきた。

そこで、Kデスクと僕らで急いで取材をかけることにした。

いつだって見ず知らずの人の自宅を訪ねることは緊張するものだ。深呼吸をしてチャイムを鳴らすと応答があった。

Xさん宅の玄関先に出てきたのは、まさに被害者と思われる女性だった。

清潔感のある品のあるかただった。ますます疑惑について聞くことが躊躇された。しかし、これを聞かないと始まらない。僕は思い切って話を始めた。

――じつは小泉首相に関する疑惑を取材しています。

「わざわざご苦労様です。お話できることはありません」

毅然とした態度で女性は話した。

――お聞きにくいのですが、小泉さんからレ●プという被害に遭われたとお聞きしてます。

「失礼します」

それだけ語ると女性は奥に引っ込んでしまった。

30年以上前の事柄について、彼女は話つもりがないようだ。思えばいちばん苦しい思いをしたのは女性当人であるし、それを再び口にすることは心痛が伴うことのはずだ。

僕らは会釈をしてX宅を後にした。取材はあと一歩まで迫っていたが、壁にぶち当たってしまった。

週刊誌は、意外と思われるかもしれないが報道基準が厳格だ。噂レベルの疑惑を書くことはほとんどない。このケースにおいても事件含みの内容だけに捜査資料(捜査された実態はないが)、もしくは当事者の証言がなければストレートに問題を書く訳にはいかないのだ。最終的にどうなったのかは記憶にないのだが、記憶にないということは記事化しなかったということだと思う。

膨大な聞き込みの努力、街を歩いた苦労が水の泡になろうとしているが、被害女性が話をする意思はないとハッキリ表明した以上は、当事者の意思は最大限尊重すべきだ。

駄目なものは駄目と割り切るのも時には必要である。仕切り直しで新ネタを探すか。

小泉家の秘密については、松田賢弥氏の著作が詳しい。ぜひご一読を。


”ド級”の資料を入手する


僕は自分のことを”犬棒”記者だと思っている。

”犬棒”記者とは「犬も歩けば棒にあたる」を地で行く形でネタを取ってきたという意味だ。まさにそう自覚するようになった出来事が、このとき起きた。

ある日、僕がトボトボ横須賀の街を歩いていると、ある不思議な場所を発見した。何かに誘われるように僕は道を進むと、何故か「ここを訪ねなきゃ」と思える場所に辿り着いた。

「こんにちはー」

ガラガラと扉を開けた。怖いかなと思いながら僕は思い切って挨拶の声を張りあげた。

「どちらさま?」

詳しい素性は明かすことが出来ないが、これが横須賀の裏事情に通じている犬養氏(仮名)との出会いだった。

「週刊誌の記者さんなんだ。面白いね。私は雑誌が好きなんですよ」

犬養氏といろいろな四方山話が始まった。横須賀の裏事情から雑誌の話まで。話は盛り上がった。すでに訪問してから数時間、すっかり周囲は暗くなっていた。

「小泉さんの疑惑を取り逃しまして。困っているんですよ」

僕は愚痴がてら取材について吐露した。

「それなら、これを取材してみたら?」

犬養氏はおもむろに立ち上がると書斎に歩を進めた。戻ってきた彼が手にしていたのは「Z会(仮名 実際は指定暴力団の名前が書かれていた)」と刻印された冊子だった。

「ここに●●さんの名前が出ているでしょ。彼は言わずと知れた小泉さんの選対本部長なんだよね。暴力団の名簿に名前が出ているんだよ」

「ええー! 本当ですか。いや本当だ。ええー!?」

いきなり驚愕の資料が出てきたのだ。犬飼氏の解説によるとZ会幹部と●●さんは深い関係にあったという。僕は少し信じられない思いで冊子を何度も見返した。

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入れ墨大臣と呼ばれた小泉又次郎氏

小泉首相の祖父は入墨大臣といわれた小泉又次郎であることは広く知られている。つまりは小泉家はもともと任侠筋に近い家柄なのだ。

確かに戦後、任侠の世界と政治が近かった時代はあった。しかし、2000年代という現代において政治家と暴力団が蜜月であるといのは俄かには信じがたい話だ。しかも●●さんは、地元では知られた著名人である。

「この冊子お借りしていいですか!」

僕は冊子を手にすると事務所を飛び出した。Kデスクに慌てて電話をかけた。

「大変です! 小泉首相の選対本部長が元暴力団であるという証拠が手に入りました!」

「ホントですか?」


Kデスクも思わず素っ頓狂な声を上げる。僕は詳細を報告して、ぜひ記事にしたいと訴えた。

「まず●●氏に確認する必要がありますね。それ次第です」

Kデスクは冷静に指示を出した。


ケロイド状の腕


問題人物の自宅は閑静な住宅街にあった。地元の名士だけにその邸宅は優雅な造りである。●●氏深く椅子に腰を落としながら静かにこちらを見ている。対峙するのは僕、I記者、Kデスクの3名である。

僕は本題を切り出した。


「●●さんの名前が、Z会の名簿に載っています。どういうことでしょうか?」

●●氏はゆっくり眼鏡をかけ直すと名簿をしげしげと眺めた。

「おやおや本当だ。おそらく気を使って名前を載せてくれたんでしょうね」


あっさり認めた。


しかも「気をつかって」って何だ!? それだけZ会と親密ということなのか。驚愕すべき事柄だが、●●氏は意に介する様子もない。そんなことはこれまで何回も言われてきたと言わんばかりにこう続けるのだ。

「私は自分の過去に苦しんできました。入れ墨を消すためにレーザーもあてました。見て下さい。腕がケロイド状になっているんですよ」

長袖ワイシャツの腕まくりをしながら●●氏は僕らに現物を見ろと言わんばかりに二の腕を差し出した。

細いが引き締まっている腕にはレーザー治療で入墨を消した痕がクッキリと残っていた。僕は入墨すら見たことがなかったので、彼の腕に残るレーザー痕は一層不気味なものに感じた。

彼は静かにシャツを直した。週刊誌記者の取材にまったく動揺する素振りのないところに、●●氏の人物としての凄みを感じざる得なかった。

●●氏は入墨など過去のことと言いながらも、Z会とは名簿に載るような関係にあることは認めた。

(マジかよ!! 否定しないのか。これは大スクープだ!!!)

僕は拳を何度も摩った。口から心臓が飛び出しそうなほどのテンションであることを必死に隠そうとしていた。●●氏に対する畏怖がありつつ、とんでもないスクープが取れたことに対する興奮がそれを上回っていた。


〈独占スクープ、小泉首相の選挙経歴「選対本部長が元暴力団」〉(フライデー2004年07月09日号)


フライデーに僕たちのスクープが掲載された。初夏に読む雑誌にしては、この上ないくらい濃厚なスキャンダル記事である。小泉青年の過去ネタは取り逃したが、捲土重来の記事を送り出すことが出来た。

僕自身としては自分のネタであり、裏付けもバッチリの自信記事だった。

しかし、同記事は思ったよりも話題にならなかった。事務所費や企業との癒着を書いたときは新聞などがこぞって騒ぎ立ててくれたが、今回はサッパリだった。唯一、後追い報道をしてくれたのが海外メディアの電子版だけだった。

2000年代初頭という時代においても政治家と暴力団の関係はタブーだったということかもしれない。新聞記者にとっては、選対本部長の過去は明確な法律違反として問えないことが理由だったかもしれない。相手が相手だけに、後追いする記者が二の足を踏んでしまうということもあったのだろう。しかし、「俺たちは法律家じゃない。おかしいことは、おかしいと指摘するのが記者の仕事なんだ」というAさんの言葉を僕は信じ、報道する意味があると考えていた。

●●氏は引退されているので詳細な経歴を記述することは控えるが、地元ではまごうことなき名士として名前が通っている人物である。その裏の顔を、フライデーは初めて指摘したのだが、世間には思うようなインパクトを与えることが出来なかった。唯一興味を持ってくれたのは外国人記者たちだけ。行き過ぎるとそれはそれで壁にぶち当たるという、不思議な感覚を僕はこの時初めて体感することになった。


文春移籍への葛藤


文春M記者とはその後も度々連絡を取っていた。

「編集部にさ抵抗勢力がいるのよ。凄い邪魔するの」


飯島秘書官についてなかなか記事化できないことにM記者は苛立っていた。なんでも「報じるに値しない」と主張する政治通を気取る編集者がいるのだという。

「文春も飯島記事いろいろやっているはずなのに難しいものですね」

僕には権力者に対して、「報じるには値しない」という事柄があるということが信じられなかったが、他の編集部にも諸事情があるのだろう。

「ところで赤石くんはさ、文春行ったほうがいいんじゃない? フライデーでは勿体ないよ。私が推薦するよ」

 ふいにM記者が話を変えた。

「文春ですか?」

僕は考えもしなかった提案に戸惑った。フライデーには記者として拾ってもらった恩もある。文春に行くというシナリオは自分の中には、当時なかった。

「フライデーでまたやり残したことがあるので。あまり移籍とかは考えていないです」

「そう。まぁ興味あったらね。それよりさ、新潮も飯島を追ってるのよ。赤石くん、絶対に新潮には喋ったら駄目よ。わかってる?」


M記者は多動力のある人だった。話題が尽きるとすぐに話が切り替わる。再び目の前の取材について思案をし始めた。

M記者の提案を断ったものの、週刊誌記者には移籍という選択肢があることに僕は改めて気が付いた。周囲に意見を求めたところ「絶対、行くべきだ」という声が多かった。

だが、僕はなかな移籍に前向きにはなれなかった。

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フライデー編集部が入る講談社


当時のフライデー編集部には才能ある記者が多数いた。

政治班の隣りは事件班のシマだった。事件班には優秀な若手記者がたくさんいた。僕が意識していた記者の一人に、Y記者という英語を流暢に話すイケメン記者がいた。シャネルの香水を振って女性をメロメロにしていると噂されたY氏は、頭脳明晰な仕事ぶりで様々なスクープを飛ばしていた。彼と同僚のK記者は、僕が編集部に入るときには既に退職していたが伝説的な活躍をした記者として名前が通っていた。比較的静かだった政治班に比べて、事件班は活気があって楽しそうだった。

そして、夜になると編集部の雰囲気は一変する。バンダナを巻いたり帽子を被ったチーマのような恰好をした集団がゾロゾロと編集部に姿を現わすからだ。芸能を中心にスクープ写真を多数ゲットする「張り班」である。

張り班の面々は、下手に絡むとカツアゲされるのではないか、と思うくらいワイルドな風貌な記者ばかりの集団だった。実際、当時の僕は近づくことさえ出来なかった。ウワサでは国立大卒で学生時代から記者をしていたO氏という張込みの天才的記者などがいるという。張り班の、その威風堂々とした佇まいはフライデーの主流派であるという貫禄を感じさせた。

同じく芸能を得意とするS記者という夕刊紙から転じてきた記者も別班にはいた。彼は新人時代からデスク級の情報量を持っており、ストイックに事件取材・芸能取材をこなすことで知られた凄腕記者だ。僕より後輩記者であったが、明らかに僕より貫禄があった。

熟練のベテラン記者、そして先輩を凌駕しようという才気あふれる若手記者たちによってフライデーの誌面は支えられていたのである。

張り班、事件班、政治班はそれぞれ独立した部隊として凌ぎを削っていた。僕は政治班員として、雑誌内でどのようなステータスを保てているのかが気になった。

ある日、僕は待ち時間を利用してフライデーのアンケート葉書を読み込んだことがあった。政治班は長らく小泉政権追及記事を出して来た。少しは「政治記事大好きです!」的な感想でもないかなーと淡い期待を抱きながら葉書を読み進めた。

《小倉優子(当時はグラビアアイドルだった)ちゃんにもっと密着して欲しいです》

《熱愛記事楽しみです》

めくれどめくれど、どの葉書にも政治記事への感想など一字もなかった。雑誌を支えているのは芸能記事でありグラビア記事であることはアンケート葉書からは一目瞭然だった。だからこそ張り班が威風堂々と振る舞うのは、当然なのだ。彼らこそが稼ぎ頭なのだから。

僕らの記事だけでは売り上げにならない。芸能、事件、グラビア、政治、様々な分野が渾然一体となって初めて週刊誌は成立する。一抹の寂しさを感じながらも、僕は週刊誌のビジネスモデルを改めて理解した。

政治班が好き勝手に取材を出来るのも、読者が芸能、グラビアなどの記事が多いエンターテイメント雑誌としてフライデーを楽しんでくれているからなのだ。ならば僕らは全てに感謝をしつつ、政権にも一矢報いて、かつ読者に振り返ってもらうような記事を目指し続けるしかない。


人材の宝庫だったフライデー編集部


そのほかにも優秀な記者が多数所属していたフライデー編集部は、実力編集者も含めて有能な人材で溢れていた。実は当時のフライデー編集部は、未来の"最強編集部”になる可能性があった陣容だったと僕は密かに思っている。活気ある編集部の雰囲気には勢いがあったし、僕はその空気感が好きだった。

歴史に「if」があるならば、とたまに考える。

もし、フライデー編集部が敏腕記者を全て手元に確保し続けたら、2016年に話題になった“文春砲”という異名は、“フライデー砲”として知られることになった可能性もあったと思う。

なぜかと言えば、2016年の週刊文春編集部は、実は記者の約3分の1はほどを元フライデー記者が占めていたからだ。「スクープ写真」で世間を揺るがす“文春砲”の手法は、もともとはフライデーが得意としていたものであり、そのノウハウはフライデーからの移籍記者によってもたらされたのだ。もちろん文春の躍進には他にも複合的な要因があるのだが、元フライデー記者が多く参画したことによる貢献も大きかったはずだ。
 
話が前後してしまった。話題を戻そう。

僕は1年近く悩んだ挙句、結局、文春移籍の道を選択することを決断する。決め手は当時の彼女に「当然、行くべき」と後押しされたからだった。

A子と最後の電話をしてから一年後に僕たちは出会っていた。

きっかけは取材だった。当時、後に首相になる菅直人ネタを僕は取材していた。元愛人T氏と復縁したという噂が永田町で立っていたのだ。

T氏の下で仕事をしていた彼女に、僕は何度も電話をした。もちろん目的は菅直人の近況を聞き出すこと。T氏の事務所には菅直人の書籍が山積みされており、本人からも「菅直人ですが」と度々事務所の電話に連絡が来るという。これは脈がありそうだ。少しでも復縁のファクトを取ろうと腐心していた。

毎日のような電話。記者としてはあたりまえだが、逆に取材を受ける立場からすれば、非日常すぎる体験だと思う。

ーー今でも2人は夜の関係があるんですかね?

僕はたまにデリカシーなく質問をしてしまう癖がある。

--今でも連絡あると言うことは、そうじゃないかと思うんですよね。

「なんでそんな下世話なことばかりを聞くんですか?」

「私がそれを話さないといけない理由もないし、義理もない。本当に信じられない」

彼女からは電話越しに軽蔑しきった声で詰られたこともあった。その後、しばらく電話に出てくれない日が続いた。

取材が上手くいかなかったこともあり記事は着地しなかったものの、なんだかんだあり僕たちは交際をするようになった。

週刊誌を嫌っていた彼女だが、やがて僕の仕事についても理解を示してくれるようになった。

「スクープは三杯目のバーボンからなんやろ。今日も頑張ってこいよ!」

そう夜な夜なネタ探しの為に出かけて行く僕を、快く送り出してくれるようにもなった。

自分のキャリア形成を考えたとき、フライデー記者赤石に足りないものは「記事を書く」経験だった。フライデーは前にも紹介した「アンカー制」を採用しており、記者は取材のみで、原稿は編集者が書くというシステムだった。

その後に、M記者から「アンカー制は時代遅れなのよねー。文春は記事が書けるわよ」とも言われた。

スクープを取るのは楽しかったが、ノンフィクションを書くための経験として週刊誌を選択した僕としては常に「記事を書きたい」という飢餓感に苛まれていた。アルバイト原稿をよく書いて憂さを晴らしていたが、それでも晴れないモヤモヤがあった。

「記事は書きたいが、Kデスクにはお世話になっているんで裏切れない。そもそも文春で通用するかも分からないし」

と毎日のようにグチグチ思い悩んでいた。彼女には僕の悩みが理解できない様子だった。

「もう答えは一つしかないじゃん。アカイシは女々しいのー!」

それでも愚痴る僕を見て彼女は苦笑いしながら、「文春に行くべき」とキッパリ言い切った。そこで、やっと僕は決断をすることが出来た。

僕は移籍をM記者にお願いすることにした。


Kデスクとの別れ


それは2005年の夏だったと記憶している。


M記者の紹介で僕は週刊文春の新谷学デスク(当時)と麹町のカフェで会った。

「おう、Mから聞いているよ。小泉をずっと追っていたんだって? フライデーは優秀な奴ばかりだから歓迎するよ。結果が全てだから、よろしく」

新谷氏の明るい雰囲気は移籍に躊躇していた僕の気持ちを和らげてくれた。

しかし一方で独特の凄みもあった。スマートなスーツ姿にメタルフレームの眼鏡といういで立ちは、さながら経済ヤクザのようでもあった。そして「結果が全てだから」という言葉に、さらなる圧を感じたことを覚えている。フライデーにはこんなプレッシャーをかけてくるタイプの編集者はいなかった。

移籍話はトントン拍子に進み、文春サイドからは「フライデー編集部の了解を得てくれ」と伝えられた。円満退社が移籍の条件だった。フライデー編集部は基本的に記者の移籍を止めないと言われていた。それでも、僕にとっては了解を取ることは気が重い作業だった。

Kデスクは僕を記者として拾ってくれた恩人でもある。チャンスを与えてくれたのもデスクだったし、2年半あまり二人三脚でスクープを仕掛けてきたという間柄でもあった。

編集部横の会議室で僕はKデスクと向かいあっていた。しばしの沈黙が続く。狭い空間には空調の音だけが鳴り響いていた。

僕は意を決して言葉を発した。

「じつは、週刊文春に行こうと思っていまして、ご報告に来ました」

「え! え! 本当ですか。なんでですか?」

Kデスクは酷く狼狽した。

「お世話になったのに申し訳ありません。長く悩んだのですが、やはり原稿を書きたいという気持ちが強く。文春なら原稿を書けると考えまして決断しました」

「もう決めたんですか?」

「はい。すいません」

Kデスクは頭に手をやり深く考え込んでしまった。Kデスクは東大卒のインテリではあるが、実はクールな所作とは裏腹に、内面に熱いジャーナリズム魂と情を持つ人であることは仕事を共にしているうちに理解していた。

気持ちがシンクロしたからこそ、僕に期待をしてくれたと思うし、僕もそれに応えようとしてきた。移籍をすぐに決断できなかった理由もそこにあった。

どれくらいの時間が経過したのだろうか。Kデスクが沈黙を引き裂くように、強い口調で語りかけてくれた。

「わかりました。僕が赤石さんの立場だったとしても文春に行くという選択をしたと思います。頑張ってください。そして、いつか一緒に本を作りましょう。約束ですよ」

僕は頭の中が真っ白になりそうだった。

別れはいつだって悲しいものだ。僕にとってフライデー編集部を去るという決断は恋人と別れるに等しいものだった。編集部内では記者はいろんな編集者から発注を受けるものなのだが、僕の仕事の98%はKデスクとの仕事だった。それだけに後ろ髪惹かれる思いが、強くあった。

自分のキャリアを考えて移籍をするのだが、育った場所を忘れてはいけないという気持ちをこのとき強く心に刻んだ。移籍の報告をすると編集者や同僚記者はみな応援してくれた。

「記者の人事異動は自分でするものだ。良かったじゃないか」

ベテランのM記者はこう僕を励ましてくれた。週刊誌記者は契約記者の形で編集部に所属している。プロ野球選手と同じような実績に応じた年俸契約である。週刊誌記者は基本フリランサーであり会社員ではない。つまり記者のキャリアは自分で決めるものだと、M記者は改めて教えてくれたのだ。

M記者やS記者といった先輩記者は、僕が文春に移籍して惨めな思いをしないようにネタ元になりそうな人を何人も紹介してくれた。

個別に送別会を開いてくれる編集者もいた。”冷酷な仕事”というイメージが根強い週刊誌だが、その実、内部で働いている人たちは本当に人情味がある人が多い。世間の冷たい目線を感じながら一緒にスクープを追う。損得抜きの熱い思いをぶつけあううちに、同志や戦友と思える人間関係を構築できるのだ。

そんな仕事は他になかなかないと思う。

現在、僕は経歴に必ず「フライデー」を入れるようにしている。自分はここから本当のスタートを切ったことを忘れないためだ。


本当のエース記者と遭遇


一方で、僕が編集部を後にすることについて少しのハレーションも起こった。噂を聞きつつけたある業界人からは「金に転んだな」と言われたこともあったし、Kデスクが新谷氏に「文春はうちが育てた記者を勝手に引き抜くんですね」と苦言を呈したという噂も耳にした。

移籍するのは事実だ。批判は甘んじて受け入れるしかない、というのが当時の心境だった。

だが、それより不安なことが僕にはあった。

週刊誌キャリア3年弱、ネタ元は片手におさまるくらいしかいない僕に、果たして週刊文春で闘っていく力があるのか? フライデー政治班の“エース”という触れ込みにはなってはいたが、それらが“誇大広告”、“過大評価”になっていることは自分がいちばん自覚していた。

冷静に見ればキャリア的には駆け出し記者でしかない。弾丸が5発の小型ピストルだけで、ミサイルからバズーカまで何でもござれの“軍事大国”週刊文春に乗り込もうというのだ。

猛烈な不安に襲われていた。

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歌舞伎町の「風林会館」

2005年12月、新宿歌舞伎町の風林会館で大忘年会が催されていた。場所は「ロータリー」という大箱のキャバレークラブ(現在は閉店)。業界の重鎮であるジャーナリストの伊藤博一さん主催のこの会では、新聞、テレビ、週刊誌の記者が一同に揃っていた。自分が業界にいることを実感させてくれる華やかな宴だった。

「赤石さん文春に行くんでしょ? ほらこっちに来なよ」

ある記者に言われて僕は奥のソファーに案内された。

そこには二人の男が座っていた。一人は優男風、もう一人はロッカー風。僕は彼らの横にチョコンと座らされた。

「この三人は揃って、文春に行くんだって!」

記者がおどけていう。

「そうなんですか! 宜しくお願いいたします」

僕はビックリして思わず腰を浮かせて会釈をした。

優男風の男は写真週刊誌「フラッシュ」に在籍していたY・N氏だった。Y・N氏は既に雑誌ジャーナリズム大賞を受賞している有名記者だった。奥に座るロッカー風の男は「週刊ポスト」のエース記者のN・N氏だった。裏社会から政治・スポーツまで特ダネを連発する剛腕記者として知られ、こちらも業界では有名人だった。年齢は二人とも35歳、記者キャリアは10年近くある。脂の乗り切ったタイミングで文春に移籍するのだ。

会釈をする二人の眼がピカーっと光った気がした。顔には余裕の笑みが浮かんでいるようにも見えた。僕の顔は引きつり、おそらく眼は光のないガラス玉のように見えていたことだろう。

(ヒエー! 移籍するの僕だけじゃないのか。しかも彼らは本物のエース記者たちじゃん)

僕も年齢は35と同じだが、キャリアはこの年末で3年弱。業界で赤石の名前を知っている人なんているのかな? という感じだった。

(二人はどう見ても優秀だ。ここまで運だけで来たけど、とうとうオレの化けの皮が剥がれてしまうヨ!)

僕は焦った。

(これはマズイ、非常にマズイ!)

いくらグラスを傾けてもウィスキーの味がまったくしなくなっていた。

(つづく)

(*当連載は週刊誌の雰囲気を伝えることを目的としているものであり、当時のスキャンダルを再追求することを目的としたものではありません。ですのでスキャンダルの内容については一部を伏字、匿名にしております。ご了承ください)


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