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絵画表現との出会い<ギャロ/日本画>

私の創作の
ステイトメント記事vol.1の中で、
10代後半の
<絵画表現との出会い>について
割愛した部分をコチラに記載します。

“遡ること”は
あまり好みではありませんが、
私自身が
何に心動かされて行動し、
何を拒み、何を選択して
何が育まれてきたのか?
という過去を眺めることで、
現在の〈絵画表現〉と私
の結びつきを確認し、
ステイトメントのvol.2として
機能させたいと思っています。



<絵画表現>の入り口は"ギャロ"


私は元々、
Jリーグ元年(1993年)に
小一からサッカーをはじめた
サッカーに明け暮れる少年
でもありましたが、
10代後半になると
それまでに培った感受性が
心に実っていく感覚があり、
次第に芸術表現へ
惹かれ始めました。

14歳で浦安から
東京の目黒区に引越し、
漠然と「なんか作りたい!」
と進学した恵比寿のバンタンの
クリエイティブ総合科を辞め、
10代後半は高校へは入らずに、
引きこもり続けました。

音楽や絵画やデザイン、
ストップモーションなど
モノを作る日々を過ごしていた私は、
この時期に
CATVや展示や映画やライブでの
"Edit(編集)"に感動し、
心に響いた表現を模倣して
”それっぽいモノを作る”
アウトプットを
繰り返し行っていました。

そんな中、
ヴィンセント・ギャロ作品との
出会いによって、更に芸術の道へ
引きずり込まれる事となりました。

ヴィンセント・ギャロは、
徹底して自らの表現を
作品に詰めこむアーティストです。

映画「BUFFALO'66」も
フィルムや構図、ファッション、
音楽、機材等すべてに
自分のこだわりや美学や思想を
頑なに詰めこんだような作品でした。

作中には
ヴィム・ヴェンダースの
パリ、テキサス」や、
小津安二郎作品の
構図へのオマージュを
取り入れながらも、
コントロールフリークの
男性の孤独感を
自己愛的なフォーカスによって
描写した本作は、
独自の世界観がフルに表現されていて、
ミュージックビデオ的な魔法と
映画的な創造性の両方を感じました。

そして、
当時の私自身の
「とにかく、なんでも作りたい!」
「だけど特定の分野には絞れない。」
そんなもどかしさを、
この作品のクレジットが
軽くしてくれた記憶があります。

監督・脚本・主演・音楽
ヴィンセント・ギャロ

「自分が作りたいものを表現するのに、
自分だけでつくってもいいんだ。」
というシンプルな自由さと、
オマージュや模倣を取り入れて
オリジナルにする姿勢に、
ワクワクが止まりませんでした。

自分で創っているからこそ、
イメージを具現化する事において
ディテールの細部にまでこだわる。
その上でその表現に必要となる
先人たちの"Edit(編集)"も組み込み、
貪欲に表現する姿勢に感銘を受けました。

そして、
私はこの映画作品をきっかけに
彼の創作に興味が湧き、
品川の原美術館で開催された
彼の画業の個展
「レトロスペクティブ1977-2002」
を観に行きました。

展示されていた作品のほとんどは、
鉄板に引っ掻きキズで描いた絵画でした。
どれも主題がパーソナルで、
ごく個人的な記憶や、
恋愛の未練や吐露や執着を、
画面に刻んだような作品でした。

鉄板の錆びた素材感が
経年変化する記憶の質感と調和し、
鉄の香りが血液を想起させ、
ナイーブで繊細な引っ掻きキズから
溢れ出す生命感を感じ、
「こんなに自由な表現があるのか!」
と改めて衝撃を受けました。

この衝撃を境に
私の意識は、一気に絵画へ傾きました。
描く内容だけではなく、
"素材"にも表現力が宿っている事を
知った私は、更に、
ある展示会で特殊な"素材"が
使われている画法と出会いました。
それが「日本画」でした。

「日本画」との出会い

2006年に東京都現代美術館で開催された
『NO BORDER日本画』から/『日本画』へ」展
を観た私は、謎の素材が
オンパレードな絵画に惹かれました。

町田久美や松井冬子、
天明屋尚作品の
緊張感のある線描や、
ぼかし、フォルムや平面性や
ディテールに重きを置いた表現力と
表具や落款等の魅せ方を含む
"Edit(編集)"に感動した私は、
キャプションに記載されていた
素材にも釘付けでした。

青墨、絹本、胡粉、雲肌麻紙、楮紙、岩絵具

見たことも聞いたこともない
謎の素材がたくさん使われている。
しかも、
この作品たちを一括りで
「日本画」と呼んでいる。

日本人なのに
「日本画」なんて
聞いたこともなかった私は、
この「日本画」で使用されている
素材の読み方さえも知らない。
という、
置いてきぼりにされたような
衝撃を受けました。

そして、
この展示作品を隅々まで
観終えた私は
「日本画」を学びたい!という
意欲で溢れていました。

しかし、
私はそれまで日本の絵画や
アカデミックな美術作品には
全く興味をもった事は無く、
むしろ、
作品に鬱屈した精神性を
封じ込めたような
”陰気臭さ”のイメージがあり、
嫌悪感と拒否反応を抱いていました。

その為、
美術教育機関に進むことは
全く考えていなかった私は
そこからはじめて
独学でデッサンの勉強を始め、
19歳で高卒認定をとり、
美大を受験しました。

とはいえ
誰か一人の教授に関心は無く、
色々な視点から「日本画」を
捉えたかった事もあり、
関西と関東の日本画家の教授がいる
京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)に
入学し、日本画を基礎から学び、
素材の可能性を知り、歴史を知り、
明治以前の日本の美術の素晴らしさを知り、
自社仏閣の襖絵や天井画などの
実物から学び、
教授たちから作家として
表現に対する姿勢を学び、
柔軟な視野を持つ重要性を学びました。

基礎的な技術の習得に
必死な状態で卒業した私は、
大学院で改めて
自らの表現を探求したいと考え、
一度、滋賀県の会社で契約社員となり、
学費を貯めてから、
27歳の時に多摩美術大学の
大学院に入学しました。

そこで、
日展・院展など
美術画壇の歴史を知り、
又、ながく受け継がれている
そのスタンスを知り、
私は「日本画」という
明治以降の括りや団体には、
全く興味が湧かない事を
実感しました。


私がもともと、
日本の美術作品に
鬱屈した精神性を
封じ込めた様な”陰気臭さ”を
感じていたのは、
この「日本画」が
画壇によって育まれてきた
明治〜戦後を経て
師弟制によって受け継がれてきた
日本人たちの作品だったのです。

明治に西洋文化が入り、
日本へ洋画が入ってきた中で
元々あった"日本の美"を明確にし、
戦略的に海外へ向けて発信する為に、
アーネスト・フェノロサと
岡倉天心を中心に
洋画との相対的な存在として
生み出された「日本画」という括り。

それと同時に、
欧化政策によって
洋画を積極的に学びはじめた
高橋由一や、
岸田劉生をはじめとする
日本人洋画家たちの陰影、
描写、濁った絵の具使いや
ヤニ派などと呼ばれる
じっとりとした重く暗い空間感や、
表現と画材の相性の悪さなどが、
私のイメージしていた
日本の美術の”陰気臭さ”でした。

そのような影響下で育まれた
「日本画」も、戦後には
平山郁夫や杉山寧らの油画的な
分厚い「日本画」をもって、
1号(22×16cm)=850万円
という経済的価値と共に、
じっとり感もピークを迎えました。

「なんか、違う。」

私は「日本画」が描きたくて
日本画を学びはじめたわけではなく、
団体に所属したいから
美術を学んだわけでもない。

大学院で自分の表現を
模索する中で、
そのような美術に対する
スタンスを確信しました。

やっぱ「日本画」じゃなかった。


大学と大学院の6年間
日本画専攻にいた中で分かったのは、
私が出会い、感動したのは
「日本画」じゃなかった。

ということでした。

私が「日本画」と出会った
NO BORDER『日本画』〜展
の作家たちも、
明治以前の江戸までに
分け隔てなく共存していた
日本の美術をルーツにした作風で、
明治以降の"厚塗り"と
対照的な表現で"薄塗り"として
形容されている日本美術
であったという事も
「日本画」の教授達との
会話の中でわかりました。

NO BORDER『日本画』〜展
の町田久美は、仏画の線描や
からくり人形や球体人形の
フォルムを取り入れた
円山応挙の<人物正写惣本>的な
"Edit(編集)"をしていました。
松井冬子は鎌倉時代からの
仏教画<九相図>を自身の
パーソナルな経験と重ねて
"Edit(編集)"し、
天明屋尚は琳派や武者絵をベースに
現代のモチーフで
"Edit(編集)"をしていました。

どの作品も「日本画」が
誕生する以前の文脈による
作風だったのです。

このタイミングで、
NO BORDER『日本画』から
/『日本画』へ」展
という当時の展示会タイトルが
いかに「日本画」というワードを
死守しようとしていたのか?
(皮肉も混じっている様な)
も、理解する事となりました。

自明性が喪失したまま
言葉と画壇と美術教育のみが
生き残った「日本画」という存在は、
私自身が感銘を受けた作品たちと
そのルーツ自体も
"異なるもの"でした。

大学院を修了後、
この気づきをもとに
私は、
NO BORDER『日本画』〜展
の作家達のように
明治以前の日本美術の文脈の中で
自身の表現とフィットする表現を
探るようになって行きました。

日本美術とのシンパシー

「日本画」ではない日本美術に
ルーツを持った現代の作家たちに
心を掴まれた事は、事実でした。
この経験からも、
私の感性はどこかで
日本の美術との強い結びつきが
あると感じていました。

そのような
"日本美術から離れられない"
自身の感覚を頼りに
日本美術史を眺めてみると、
シンパシーを感じる
画派が二つ存在することが
明確になりました。

ステイトメント記事
中でも述べているように
私は
“Edit(編集)“
という美意識によって
"空虚"を共有したい。
という思いによって、
創作活動をしています。

"空虚"を表現するという
観念の図像化という面でも、
「空(くう)」
という概念との
シンパシーという面でも、
<仏教画>や<禅画>には、
私が理想とする表現方法が
たくさん含まれている事に
気がつきました。

その中でも、
仙崖(1750-1837)の
「○△□」は
まさに、シンパシーを感じた
絵画表現でした。

英語圏では"The Universe"
と表記されることもあるように、
画面上の「○△□」の配置によって
宇宙=森羅万象を表現した
絵画とされています。

仙崖「○△□」


このような
禅画における観念の図像化や
モチーフの選定、構成、調和
のディレクションは、
“Edit(編集)“
という私自身の美意識と
重なる表現と言えます。

画面上でゼロから世界を作る上で、
普遍的な記号や、既成の図像や、
共通認識の概念の組み合わせ
によって調和させ、
新たな世界を構築し、
思想やコンセプトを伝達する。
このスタンス自体が、
私の理想的な芸術表現でもあります。

<知っているもの>
の集合体でありながらも、
“Edit(編集)“によって
<知らないもの>
となった作品が
新たな世界を創造し、
視覚的対話が始まる。

これは、
私自身の原体験
海の漂流物との対話
によって育まれた
美意識でもあります。

仙崖は、画面上に
言葉を添える事もありますが
それも含めて
“Edit(編集)“
による表現として
私淑しています。

もう一つは、
俵屋宗達(1570-1643)や
尾形光琳(1658-1716)を
はじめとする〈琳派〉です。
琳派は、着物の柄や硯箱などの
日用品のデザインが根底にある事からも、
ものの選定、構成、調和に重きを置いた
“Edit(編集)“による
美の創造といえます。

ものの形の美しさへの追求、
素材やテクニックへの探求、
それらを画面上で
「どのように構成すれば
視覚的に美しいのか?」
思想や神仏の
世界観や自然観は
「どのように図像として
アウトプットできるか?」
など、徹底的に現象と向き合い、
視覚の対話を促す事に
こだわりと情熱をもった
芸術と言えるでしょう。

「燕子花図屏風」のような
サンプリング的特性や、

「燕子花図」尾形光琳 根津美術館


「風神雷神図」のように
宗達(16世紀)→光琳(17世紀)
→抱一(18世紀)へと、
100年単位のムーブメントの中で
アプロプリエーション(盗用)や
オマージュを繰り返している面でも
現代につながる"ノリの感覚"と、
時代を超えた芸術による
コミュニケーションの
可能性を感じています。

「風神雷神図屏風」俵屋宗達

私はこのような
琳派の系譜に"ノっかる"人々が
好きですし、
日本の美術の歴史の中で
"ノリの感覚"を時代をまたいで
共有できる豊かさに
惹かれています。

「デザイン」と言ってしまえば、
それまで。
「絵画」と言ってしまえば、
それまで。

日用品の”柄”という
「デザイン」の文脈が派生して、
「絵画」という一つの世界を
創るようになった背景が、
表に滲み出てくるような琳派の作風は、
様々な線引きを横断するような
私自身の“Edit(編集)“という
美意識とフィットしています。

全ての表現は、
互いに刺激しあって
互いに共鳴しあって
表現の追求のなかで
新たな美として昇華されていく。

琳派として括られた作品達には、
そのような柔軟で野心に溢れた
線引きの無いスピリットを
感じます。

このように
日本美術と私自身の感覚の
接点を探る中で発見した
<禅画>と<琳派>は、
まさに温故知新であり、
視覚芸術によって
時代を超えた
表現者としてのシンパシーを
実感する事ができた
とても大切な存在となっています。

それは、
モチーフの選定、構成、調和
のディレクションに
重きを置いた
“Edit(編集)“という
アプローチという点でも。

観念の図像化や、
現象との向き合い方、
視覚の対話への探求という
点においても。

絵画表現によって
"空虚"
の共有を課題にしている
私自身の創作の礎として、
現在も機能しています。
そして、
シリーズ作品
<feel><for now>
は、これらの表現を
直接的に取り入れた
作品群となっています。

<絵画表現>と、私。

「日本画」ではなかった。
と、前述していますが
実際、
私は「日本画」という存在を
否定していません。

「日本画」と出会い、
それを学ぶ中で得た
技術や美術的感覚は、
私自身の価値観を形成する
とても有意義なもの
だったからです。

岩絵具や土や、墨などの
自然の鉱物由来の顔料は、
濡れ色と乾き色の差が激しく、
イメージとのすり合わせが困難で、
砂のような粒子の粗さによる
融通の効かなさや、
もどかしさを強く感じました。
和紙や膠は伸縮激しく、
筆や画面の水の流れや
シミを"読む"ような判断を
常に強いられるような性質をもった
これらの「日本画」の画材からは
"コントロールできない"自然と対峙し、
"コントロールしない"事による
「美の術」を学びました。

これは、
万物の存在への意識や、
現象と対峙する事、
社会や、仕事や、
人と共生する事に
共通する学びだと思っています。

又、「日本画」の中でも
竹内栖鳳や速水御舟や
福田平八郎など感性を刺激する
作家とも沢山出会う事ができました。

そして、
「日本画」を通して
日本の美術の歴史を知り、
<禅画>と<琳派>と
個人的に時空を超えて
通じ合えた事で、
美術史や絵画の文脈内での
自身のルーツを
実感する事ができました。

しかし、
私が生み出したいのは
「日本画」でもなく、
<禅画>や<琳派>
でもありません。

私は私の表現で
新たな美の世界(作品)を、
視覚芸術として
創造することに注力しています。

そのような意味でも
現実とは別のリアリティーを
持った世界を、
ゼロから構築できる
<絵画表現>は、
私自身の創作ルーツと感性、
表現したい内容と
非常に親和性が高い事は、
明確と言えます。

16歳でギャロをきっかけに
<絵画表現>と出会い、
「日本画」を経て、
禅画と琳派を私淑し、
現在、自らの表現と
向き合っている38歳の私。

遡れば、私は
直感を信じて嫌な事を避け、
好きな事や楽しい事を明確にして、
やりたい気持ちで突き進み、
自らの幸福感を維持してきました。

その中で
今現在も共に歩んでいる
<絵画表現>は、
私の人生において
とても大切なパートナーであり、
これから先も私を前進させてくれる
心強い存在と言えるでしょう。


朱池亮人(アカイケリョウト)
2015年から台湾をベースに、タイ、シンガポール、
インドネシア、中国、マレーシアなど
アジアのアートフェアや国外を中心に活動。
2020年からは絵画表現と並行して、
映像ユニットHORISHIROの
脚本・監督として映像作品も制作している。





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