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「ステイトメント」漂流物との対話

私の創作は
“Edit(編集)“
というアプローチによって
「空虚」という
芸術体験を共有する事を
理念にしています。

はじめに

存在とは、なんなのか?
現実とは、なんなのか?
認知とは、なんなのか?

芸術家は、
それらを解き明かすように
独自の目線や美意識や思想を
作品を通じて共有します。

それは、
科学や医学や哲学や
物理学や現象学、
宗教と同じように
万物と向き合う事によって
影響し合いながら
生み出されるものです。

私は作品を通して、
“あなたが存在している事“を
表現しています。
私はこの表現を「空虚」
という言葉で形容しています。

私の考える「空虚」は、
決して“空っぽ“な事ではありません。

生きる中で武装されている
既成概念や知識や固有性を
脱ぎ捨てたあなたと万物が
対等に循環している状態の事です。

生命の悦びが常に
あなたとあなた以外の中を
巡っている事を実感する、
気づきを与えるような概念です。

私はこの「空虚」を表現する為に、
様々なテーマや
シリーズを設けています。
それは今現在のあなたに
接近できる内容なのかを
模索し続けているからです。

私は作品を通して、
あなたの存在を肯定しています。
それを伝える為に創作を続けています。

その様な理念を
具現化する方法として
私の芸術は、
選定、構成、調和を
ディレクションする事に重きを
置く“Edit(編集)“という
アプローチを主軸としています。

私がこのEdit(編集)に対して
美意識と信頼を確信したのは、
私自身の原体験が
深く関係しています。

私自身の原体験から
振り返る事で、
「空虚」の共有という
創作理念に至った経緯へと
導きたいと思います。

”漂流物”による
美意識のめざめ

私は、1986年東京都で出生し、
幼少〜少年期(幼稚園〜14歳)を
千葉県浦安市で過ごしました。
浦安市は千葉県なのですが
"東京"ディズニーランドがあり、
東京湾に浮かぶ人工的な埋立地です。
1950年代の工業化による
水質汚染によって漁業が衰退し、
そこでディズニーランドの誘致計画を
一つの理由に、埋立てが行われて
できた人工の街です。

アメリカ企業によって
構築された人工の街ならではの
カリフォルニア感をファストに演出する
ソテツが均等に植えられ、
平坦で地形の起伏も無く、
山も森もなく、
観光客向けのホテルや
ファミリー向けの集合住宅が立ち並び、
近隣にはディズニーのキャスト達が住み、
夜には決まった時間にディズニーランドの
花火の音が鳴り響く。
そんな環境で育ちました。

唯一、
浦安で自然を感じることができたのは
堤防から望む東京湾の景色でした。

東京湾には様々なものが流れ着きます。
美容師の練習用マネキン、
ハクビシンの亡骸、おもちゃ、
ペットボトルやVHS。

私は、
沈むことなく"生き残って"
浦安の海に漂流したもの達の集合体に
美しさを感じていました。

コンクリートの堤防の行き止まりに
全く不明な場所から
流れ着いたもの達が
波によって集合し、
配置されて、
幼い自分に視覚的な衝撃を与えました。

じーっと、
その集合体を見つめる事で
"存在"への問いが生まれる。

幼い頃から父が不在で、
片親育ちの私。
頻繁な引越しで、
居場所の感覚が欠如した私。
なぜか”東京”と呼ばれ続ける
千葉県のアメリカ企業によって
構築された人工埋立地の街で
漂流物と同じように浮かんでいる私。
その感受性は、
"存在"という不明瞭な概念に
疑問を抱いていたのかもしれません。

この感受性と重なった
幼い頃の東京湾での体験が、
私の美意識や
創造性の源となっています。

私の目の前の海に
プカプカと浮かんでいたのは、
様々なルーツによって存在するもの。
用途もわからないもの。
知っているものだけど
姿が変形しているもの。
退色した生活用品や、
新品状態のままのおもちゃ。

波によって集合したもの達が
それぞれ色彩バランスを生み出し、
それぞれが筆致となり、
コラージュとなり、
一つの集合体(作品)となった時に
文脈や用途が消失し、
"存在"を問いかけてくる。

目の前の"ナニモノか"と向き合う事で
自分という"ナニモノか"を問われる。

存在の理由や
意義や文脈やルーツや
物質やアイデンティティーが消失し、
「ナンダオマエ?ナンダワタシ?」
と、"存在そのもの"を
問う状態となる。
私はこの状態を
「空虚」
と形容しています。

「空虚」
となった瞬間に、
"すべての存在"が循環しはじめる。

すべてとの境界が
無くなるようなこの感覚が
仏教の「空(くう)」という
概念と重なる事を知って以来、
私が東京湾で
漂流物の集合体と体感したのは、
物理や実存や生命、
時間や空間を包括したような
芸術体験だったのだと
改めて認識しました。

「空虚」を
生み出す“Edit(編集)“


浦安の漂流物の集合体と、
私はなぜ「空虚」
になったのか?

流れ着いたもの自体は
海が作ったものではない。
しかし、
海はものを運び、
海はものを変形させ、
海は私の目の前で
それら複数のものを
配置して、演出しました。

たとえ、そのもの自体が
世の中にとってゴミだとしても、
汚く不快なものだとしても、
環境破壊につながるような
非道な行為によって
流れ着いたものだとしても、
私はその背後にある
事実関係や、知識には
全く興味がありませんでした。

それよりも、
その集合体の調和と、
視覚的な対話という体験を
ただ、美しく感じていました。

視覚を通して
私とその集合体の”存在”
が対話し始める感覚。
そして、
その対話によって
すべてと私の境目が消失する
「空虚」という感覚。

それは、
どこにも捉われない
どこにも属さない状態であり、
同時に全てと一体化している自分を
実感する状態とも言えます。

私は、この海の創造性に
よってもたらされた
美しく豊かな「空虚」という
芸術体験に刺激を受け、
ワクワクしていた記憶があります。
そして、この感覚を
誰かと分かち合いたいという
思いが芽生えていました。

私がこの海を観ていた
1990年代は、
CATVが一気に普及した
時期でもあります。
多数の専門チャンネルが
配信開始になり、
音楽、映画、スポーツ、演劇など
がいつでも観れるようになりました。

私は、特に音楽chの
MTVやSSTV、Viewsic(現MonTV)
や映画chのスターチャンネルや
WOWOWに夢中になりました。
世界中のミュージックビデオや
映画を見続ける環境によって
私は、海の創造性と同じような
ワクワクを感じていました。

ミュージックビデオからは
様々な国の美意識や思想、
トレンドやファッション、
音楽の世界観を
視覚の世界に置き換える時に生まれる
魔法のような創造性を感じていました。

映画からは
物語の文脈や宗教観、
社会問題や、
現実や非現実についての目線。
なにかを映す事で感情を表現する
メタファーの読み解き、
作品全体の世界観の構築に
芸術の奥深さを感じていました。

私はこの芸術の複合的な
グルーヴが生み出すワクワク感と、
海で感じたワクワク感が、
ある同一の方法によって
生み出されるている事に
気がつきました。
それが
“Edit(編集)“です。

カットや素材やモチーフが
どうやって配置されて
集合体になっているか?
どうやって演出したから
どう感じるように誘導されているか?
作中のさまざまな仕掛けや
たくさんの企みによって
鑑賞者の感受性が揺さぶられ、
新たな視界が拡張される芸術。
これは“Edit(編集)“
という手法によるものだと
認識しました。

海が意図して、私の目の前に
ものを運んできたかはわからない。
しかし、
ミュージックビデオや
映画のような芸術は
作者の企みによって
“Edit(編集)“
されている。

それならば、
私も海のような
“Edit(編集)“を、
自らの企みで行い、
海で体感した「空虚」
他者と共有したい!
海が運んできた漂流物のように
自らの芸術作品を通じて
世界のどこかの"ナニモノか"と
コミュニケーションをとりたい!
と考えるようになりました。

これが、
今の私の創作の
起源となっています。

その後、10代後半に
ある映画作家の絵画表現へ惹かれ、
更には「日本画」と出会い、
絵画表現の中での
“Edit(編集)“を試み、
「空虚」
という芸術体験
と向き合う創作活動を行っています。

☆<絵画表現との出会い>についてはコチラ↓


「空虚」へ導くシリーズ作品


「見ざる聞かざる言わざる」を
一体に集約し、顔文字の記号、
禅の○△□記号、仏の螺髪を
ボディーパーツとして
“Edit(編集)“し、
人間という存在の"アイコン"として
表現した<FEEL>シリーズは、
2015年から制作している作品群です。

進化論と成仏という概念を組み合わせ、
人間という存在を
"猿から仏へ向かうプロセス"として
定義する事によって
螺髪のついた猿のような
ヴィジュアルに落とし込んでいます。

<feel>シリーズ

本シリーズは、
情報過多社会をテーマに
しています。
目まぐるしい情報の中で
「見ず聞かず言わず」状態
となった人間同士の
心の繋がり(feel)にフォーカスした
ユートピアを描くことで、
「知らぬが仏」という
仏教思想を表現しています。

2018年から制作している
<for NOW>シリーズは、
仏教思想の「諸行無常」を
コンセプトにした作品群です。

<for Now>シリーズ

日本美術史上の作品の中から
シミュレーショニズム的に、
モチーフやディテールを
アプロプリエーションし、
禅画の○△□を
抽象化した肉体のフォルムとして
“Edit(編集)“する事で、
生命の刹那性を表現しています。​

これらのシリーズ作品も
モチーフと鑑賞者の存在の間で、
「ナンダオマエ?ナンダワタシ?」
という対話による
「空虚」が生じる事を意識して
制作しています。

「空虚」という美


今から30年前に
東京湾に浮かぶ人工の街で
漂流物を見つめる少年の感受性と、
それによって培われた美意識。

それは、
無数の情報の中で
ファストに移ろいゆく現代社会と
強い結びつきがあると思っています。

インターネット上の
文字情報や動画や画像などは
他方へ拡散される中で
断片化され、変形し、
文脈を失って流されて行き、
個人情報や嗜好と紐付けされた
ステルスマーケティングや
AIによる統計が絡み合いながら
目的地が絞られ、
今もどこかの誰かの目の前に
"漂着"しています。

なぜか、その情報が
自分の目の前に来た。

これは奇しくも
私の原体験と重なる状況と
言えます。

日々、目の前に流れてくる
「情報という漂流物」と、
海が私の目の前に運んできた
「東京湾の漂流物」。

どこかの誰かの大切なもの
だったのかもしれない。
どこかの誰かが無くしたもの
だったのかもしれない。
どこかの誰かのいらないもの
だったのかもしれない。
そんなもの達の集合体が、
存在という不可解な概念をまとい、
美しく"Edit(編集)"された状態で
私の目の前に流れ着く。

30年が経った今も、
この漂流物との視覚的な対話が
もたらす「空虚」が、
私の心を掴み続けています。

すべてのものは在って、
すべてのものは居て、
それらは私と違い、
それらは私と同じ。
それらは私と別であり、
それらは私と一体。
一体であるということは?

「ナンダオマエ?ナンダワタシ?」

私と漂流物の
視覚的な対話によって生じた
「空虚」という芸術体験。

この体験の美しさを
私は知っていて、
それを他者とも共有したい。

そのために、
どのような"Edit(編集)"をすれば
あなたと「空虚」
分かち合えるのか?

私に美を与えてくれた漂流物のように
芸術の豊かさを教えてくれた漂流物のように
表現の方法を教えてくれた芸術家達のように
私も自らのイメージを作品にして漂流させ、
どこかの"ナニモノか"の目の前へ漂着させたい。

そして、作品を通して
「空虚」を分かち合いたい。

そのような思いで、
今現在も創作を続けています。

おわりに

私にとって芸術は、
事物と向き合う事を放棄して
ある程度のラインで納得し、
明確な答えを見つけて楽しむ為の
ツールでは無く、
逆に徹底して向き合い続け、
その都度のリアリティーに
伴った発見の中で、
非常に微量に生まれていく
“潤い“だと思っています。

一つの作品においても、
歴史的な文脈を俯瞰したり
作家の変遷をたどれば
結果や答えは常に変動し続ける
多角的で多義的なものであると
言えるでしょう。
これらに長い時間かけて向き合う事を
放棄しない者のみが、
作品に含まれる沢山の刺激的な楽しみを
得る事ができます。

これは、
非常に味わい深い
濃厚な体験だと思います。

「わからない」が
どれだけ豊かな事か、
「わかった」が
どれだけ貧しく危うい事かを
芸術は常に人々突きつけています。

時短、タイパ、コスパ、倍速見、
まとめ動画。
現代には「わかった」
をファストに求める事による
“向き合う事への放棄“が溢れています。
そして「わかりやすい」事へと、
人々の関心が傾きはじめています。

私にとって「わかった」は、
一種の恐怖です。
「わかった」は
全存在を否定する事だとも
思っています。

生きる事は
「わからない」を、
「わかることはない」前提で
「わかろうとする」の
能動的な継続性によって
かろうじて維持されている
状態だと思っています。

私が禅の思想やアプローチに
シンパシーを感じたり、
あなたの存在を肯定する
「空虚」を創作理念に
し続けていることは、
この「わかろうとする」行為
=生きる事
そのものでもあります。

まわりくどい言い方をすれば、
「わからない」を
「わかろうとする」によって
「わからない」(作品)を生み出し、
「わかろうとする」を促す事で
あなたの存在を維持させるのが、
芸術自体の一つの
役割だと思っています。

いくら整理しても
いくら分析しても
知識や経験を手繰り寄せても、
一向にたどりつけない。
芸術による「わからない」が
どれだけ人を豊かにし、
存在を維持させているかを
私はこれからも作品を通して
伝えていきたいと思っています。








朱池亮人(アカイケリョウト)
2015年から台湾をベースに、タイ、シンガポール、
インドネシア、中国、マレーシアなど
アジアのアートフェアや国外を中心に活動。
2020年からは絵画表現と並行して、
映像ユニットHORISHIROの
脚本・監督として映像作品も制作している。


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