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壇上の人と、私

 高校生の頃、地元のライブハウスに友人の先輩が出演するということで見に行ったことがある。その先輩と私は直接面識がなかったのだが、女性で、背が高くて目は大きく色白。美人ゆえに少し校内で浮いてしまっているような。「高嶺の花」という言葉がぴったりの人だった。例に漏れず私も廊下や校庭を歩く姿を遠巻きに見ながら憧れていた。けれど若干彼女の馴染み切れていない様子を心のどこかで「可哀想、気の毒だ」とも感じていた。

 先輩たちが壇上に上がった時の照明の明るさと、歓声の響きを今でもよく覚えている。

 先輩は男女混合のバンドを組んでいて、そのライブハウスは決して大きくはない箱だったけれど、楽器を演奏し客席を煽る彼女は、とてもはつらつとして見えた。

 私が勝手に「浮いていて、可哀想」と思っていた彼女は、学校以外のコミュニティで輝ける場所を見つけていたのだ。その時、私は自分がとても狭い尺度で人を判断していたのだと気付き恥ずかしくなった。彼女が学校でどういう立場かなんてとてもちっぽけで、それが世界のすべてだなんて事あるわけないのに。

 そして自分が彼女のように壇上で輝くような場所を持っていない現状に、なぜかとても焦りを感じた。私は人前に出ることが苦手で、学校で作文が何かしらの賞に選ばれ生徒の前で発表することになった日なんて、読みながら変な汗が止まらなかったくらいの引っ込み思案なのにもかかわらず、だ。自己を大勢の前で表現する行為に、とてつもなく憧れを抱いた。だが先輩のライブを見て湧き上がったそんな切望も日々を過ごしていれば自然と薄れていくし、自分の向き不向きもわかってはいたので「私もバンドを組もう!」などとはならず今に至るのだが。

 けれど今でも不意に思う。それはステージでパフォーマンスするアイドルだったり、フェスで観客を湧かせるミュージシャンだったり、演技で人を釘付けにする俳優だったりを目にした際に「あぁ、いいなあ」と底知れぬ羨望が湧き上がってくるのだ。

 そのステージに立つまでに、きっと彼らは並々ならぬ努力をするのだろうし、とってかわりたいなんて烏滸がましい事は勿論思わない。けれどだからよりいっそう、そんな表現者たちに焦がれてしまうのかもしれない。

 自分ではなり得なかったものを成し遂げている人、そういった人が放つパワフルで、噓のように現実離れした輝きにとらわれてしまう。

 そんな私の羨望の原点は、きっとあの小さなライブハウスで先輩が浴びていた、オレンジ色のスポットライトなのだと思う。

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