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うまれた赤ちゃんに感じるのは『喜び』よりも『責任』

漫画やドラマで、

「あなた、……実はわたし、赤ちゃんができたの」
「本当かい!? ジーザス! なんてめでたい日なんだ! 僕は最高に幸せだよ! さあお祝いをしよう、名前はなににしようね」
「あなたったらまだ性別もわからないのに、気が早いわよ……」

なんていう光景はよくあると思う。子供ができたことを告げて、全力で夫が喜ぶシチュエーションだ。

わたしも数年前に上の子が生まれたわけだし、「赤ちゃんができたの」という場面を人生で経験している。そして、そのとき感じたもっとも大きな感情は「喜び」ではなく「責任」だった。


いまだに去年のセールのときに買ったDMMブックスの積読と戦っているのだけれど、そのとき買ったなかに『おっぱいがほしい!―男の子育て日記― 』という本がある。

きっかけは忘れたけれど、男の子育ての話であり、「おっぱいがほしい」というこのフレーズに共感して買ったのだと思う。小さい子供を育てたことのある男親なら一度は感じたことがあるはずだ、「おっぱいがほしい」と。
もちろん、ないものねだりなのは重々承知なので、くだらんこと言ってないでもっと手伝えよ、とかそういう非難は勘弁してほしい。

そして本作の中にも出てくるのだ。産まれてきた子供を見て「喜びよりも責任の方が大きかった」と。その一文を見てしまったときわたしの脳裏に過去の記憶が呼び覚まされた。

「あなたは子供が生まれたとき、あんまり喜んでくれなかったもんね」

といって妻に小言を言われたときの記憶だ。

そもそもわたしが上の子の妊娠を知らされたとき、39℃にもなる熱でわたしは寝込んでおり、そんな状況で喜べというほうが無理な話だろうと思う。しかしそんな状況でも、熱にうかされたわたしの頭によぎっていたのは、喜びというよりも「責任」だった。かりに平熱であったとしても多分それは「責任」だったと思う。

べつに喜んでいないわけではない。もともと結婚した段階で妻は30代後半で、子供ができなくてもそれはそれで仕方がないと思っていた。それもあって子供ができたのであれば、それはもちろん喜ばしいことだった。
しかしその喜び以上にわたしの頭を支配したのは、これからはこの子を無事育てていかなければいけないという思い。自分の人生にもう一人分の重みがのしかかった責任だったのだ。

なにせ妻はすでにいい大人なわけで、かりに私がいきなり死んでしまったり、考えたくはないけれどお別れすることになったとしてもなんとかやっていくだろう。でも子供はそうはいかない。
かりに離婚したら十中八九妻に持っていかれるんだろうから金さえ誠実に出せば……とかそういう現実的な想像はおいておくにしても、すくなくとも十数年は誰かが面倒見なければまず生きていけない生き物なのだ。

その上、自分の判断によって彼の人生を容易にふりまわせてしまう立場になったのだ。望まぬ妊娠ではないし、そういった想像は何度もしてきた。でもいざ現実になればその壁の高さにはおののかずにはいられないのだ。

これが責任を感じるなという方がおかしい。


わたしに言わせると、「妊娠した」と告げられて、なにも考えずに喜ぶことができる男は、妻の前ではいい夫を完璧に演じることができる出来すぎ超人であるか、未来のことをあまり考えていないでただ喜んでいるかの二択だとすら思っている。

いや言いすぎた。もちろんそんな極端な話ではない。……ないけれど、つまりわたしが言いたいのはひとつ。

「子供ができた」と告げて旦那に微妙な反応をされたとき。かならずしもなにか後ろ向きな感情にとらわれて微妙な反応になっているとは限らないよ。

ということだ。だからそのときの反応だけをみて非難するのはやめてあげてほしい。そんな切なる願いだ。むしろ手放しで喜んでいたら先の行動を怪しむべきだとわたしは思う。

とはいえ、もちろん人によっては、「子供? うわーめんどくせぇな」とか「え、浮気相手だったのに妊娠したの……」とかシチュエーションによっていろいろあるとは思うのでので注意は必要ですけれど。


最後にあんまり関係ないけれど、育児本でわたしが好きな『はるまき日記 偏愛的育児エッセイ』と『れもん、うむもん!——そして、ママになる——』置いておく。

『はるまき日記 偏愛的育児エッセイ』はDMMブックスで買えば50%ポイント還元中。どちらもマンガ家さんの育児エッセイです。



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「欲しいものリスト」に眠っている本を買いたいです!(*´ω`*)