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義務感

はじめは、「何かをしたい」と思ってたものが、


あるときから急に、
「何かをしなきゃ」に変わってしまうことがある。


はじめは、「何かをしてあげたい」と思ってたものが、

あるときから急に、
「何かをしてあげなきゃ」に変わってしまうことがある。

元々は、
自分がそうしたいと思ってた筈なのに、

あるときから急に、
それが義務感に変わってしまうことがある。

自分がそうしたいと思ってたときは、
自分に主導権があるわけで、


自分に主導権があるから、
その中心には「楽しみ」や「嬉しさ」があったわけで。


でも義務感がどんどん強くなると、

中心にあった「楽しみ」や「嬉しさ」は薄れていき、
どんどん「やらされている」感が強くなっていく。


こうなると、
それまであった「楽しみ」や「嬉しさ」は殆ど感じれず、

どっちかって言うと「苦痛」に変わっていく。


嫌ならやめればいいじゃないかと周囲は思うかもしれないが、
本人的にはそうはいかない。


なぜか?


「自分がやりたいからやている」ではなく、
「周囲の期待に答えたい」願望が強くなり、

「それに答えることが最優先」という
評価軸に変わってしまっているからだ。


どんなに自分が好きなことでも、
自分がやりたいと思ってはじめたことでも、


その向かう先が「周囲の期待」になってくると、義務感が強くなる。


本当はそこに絶対的な「義務」もなにもないけど、

本人は勝手にそれを「義務」と感じてしまう。


義務感は「義務」ではなく、「感」なわけで、
要するに、本人がそう感じているだけなんだけど、

一度インストールされると、中々そこから抜け出せなくなる。


だからこそ、

「ダメな自分」

「周囲の期待に答えれない自分」

「途中で投げ出してしまう自分」

「自分の楽しみを最優先に考えてしまう自分」

こういう自分も、それはそれで居てもいいのだ。

と、予め許可を出して生きるに限る。


人生の土台に、

「他人の期待に答えること」を置いてしまうと、
どこかで行き詰まってしまう。


行き詰まって、そのうち息も詰まる。


「周囲を喜ばせたい」

「他人の期待に答えたい」

これは決して悪いことではないし、
いい方向に向かうことだってきっとある。


でも「それが全て」になると、段々自分はしんどくなる。

「不完全な自分」を許そう


「中途半端な自分」を許そう


「できない自分」を許そう


「ダメな自分」を許そう


「他人の期待を満たせない自分」を許そう

自分への「許し」の先に、自由な世界があるのだから。


ぼくの記事を読んで頂きありがとうございます。頂いたサポートを励みに、これからもどんどん発信していきます。今後ともよろしくお願いします。