もう、ほとんど終えてしまった僕だけど(おるもすと/吉田篤弘)
もうほとんど何もかも終えてしまったんじゃないかと僕は思う。(中略)どうしてかと云うと、次にすることを思いつかないからだ。
――「おるもすと」p7より
僕は、自分の人生が、「これからはもう、余生なんだな」と思っている。
僕はまだ(もしくは、もう)20代で、「人生はまだこれからだろう」と云われてしまう年齢だから、今が余生だなんて、パートナー以外の人に云ったことはない。でも、自分ではそう思っている。
もしも、一生に一度だけ願いが叶うなら、心から大切に想い、想われるパートナーに出会いたい。僕は、ずっとそう思っていた。そして、一生叶えられることはないだろう、とも。けれど、それは思いの外、あっさり叶ってしまったので、後は、どうしようかと思っている。
パートナーがいてくれれば、他には何も望まない。それは、案外大げさではないのだった。
お金は、2人が生活できる分だけあればいいし(元々、僕らはあんまりお金を使わない。)、パートナーに「ああしてほしい」「こうしてほしい」とか、そういう押しつけがましい願望も無い。(パートナーには、自分らしく生きていてほしい。)
パートナーとやりたいことも、個人的にやりたいことも、まだまだあるけど、それは、余生を生きる上での楽しみのようなものだ。まあ、余生と云うには、残りの人生はずいぶん長いけれど、そんなものだと思っている。
とはいえ、いつ人生に終止符を打たれてもいいかと云えば、そうでもない。
僕は、自分が余生を生きていると思っているけど、パートナーはそうじゃないと思うから。(まあ、訊いたことはないんだけど。でも、価値観っていうのは、人によって、少しずつずれているものなんだ。)
僕は、現状維持でいいと思っているけど、もしもパートナーが、野へ山へ行きたいと云うなら、喜んで付いていこうと思う。僕は、パートナーと日々を過ごすことができれば、それで幸せなんだから。
仮に「終わり」と示したところで、その先も語るべき物語はつづいてゆく。(中略)登場人物たちはそのあとも息づき、ひそかになんらかのドラマを演じつづける。
――『「おるもすと」の話のつづき』p82より
一区切りが付いても付かなくても、人生はつづいていく。「僕の人生」は、「僕らの人生」になって、これからもつづいていくんだ。
おるもすと。
これまでの「僕の人生」に、そう名付けたい。
おるもすと/吉田篤弘(2018年)