「きれいに穢れた美しさ」(毛皮のマリー/寺山修司)

下男 マリーさん。この世で一番の美人は、あなたです。
マリー ほんとに?
下男 鏡は、うそを申しません。
マリー まあ、よかった。白雪姫はまだ生まれてないのね。

――本文より引用

その通り、毛皮のマリーは誰よりも美しい。と、ぼくも思う。それは、美貌であるだけではなく。清廉潔白。には、ほど遠い人。けれど、その振る舞いを美しいと、思わされずにはいられない人。


美貌の男娼には、子どもがいる。美少年・欣也。欣也は、外へ出たことがない。マリーが、外へ出さないようにしているから。それに、本人も外へ出たがらない。(それは、出たことがないからこそ、だと思うけど。)


この戯曲が掲載されている本には、「本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる……」と、平成以前に執筆されたものにはお決まりの文句がある。「おかま」だの「すべた」だの、差別用語に当たるものは頻繁に登場するので。(まあ、そういう話なんだけど。)


でも、マリーはそんなもの鼻にもかけないだろうし、できれば鼻で笑っていてほしいと思う。

マリー そう、世間の人はあたしのことを、自然じゃないって仰言るようね。作りもので、神さまの意志にさからっているって。(中略)いいえ、どうせ、人生には自然のままでいいものなんて一つもありゃしないんだよ。

――本文より引用

マリーは、欣也の育ての親。生みの親じゃない。彼を育てているのは、復讐のため。昔々、欣也の本当の母親に侮辱されたから。


侮辱は、読んでいるぼくも許せないものだった。マリーじゃなくても、復讐したくなる。けれど、子どもに罪はない。と考えているぼくは、甘いんだろう。


侮辱した女もその子どもも奈落に落とすことが、人生の一部になっている。そんな激烈な感情は、理解の範疇の外にある。理解しようとしても、できない。


『毛皮のマリー』を読みながら、ぼくはマリーになったり、欣也になったりした。親しかった人に裏切られたこと。育ての親の本意を知り、逃げ出したくなるも、結局逃れられないこと。目まいがするほど、おびただしい感情が詰め込まれた戯曲だった。


マリーのすべてに肯くことはできない。それでも、彼女が「この世で一番の美人」なのは、たしかだと思う。代わりを務めることは、誰もできない。共感も反感もすべて呑み込んで、毛皮のマリーはそこにいる。

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毛皮のマリー(『戯曲 毛皮のマリー/血は立ったまま眠っている』収録) - 寺山修司(1976年)

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