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「し」(灯台守の話/ジャネット・ウィンターソン)

自分で自分の死となり、みずからそれを選び受け入れるとは、いったい何という人生だろう。(中略)今の俺にできることは、せいぜいこの死を味わいつくすことだけだ。

――本文より引用

この本を読み始め、中盤に差しかかったとき、ぼくは「し」と隣り合わせだった。正確に言えば、生きている内は、常に「し」と隣り合わせだけど、そういう話ではなく。他人に自分の首を絞められたり、自分で自分の首を絞めたり、そんなことが続いたので、「し」を親しむようになっていた。


もう、人生で何度目かしれない。生きているのに、すでにしんでいるような気がするのは。この度は、どこへ行くにも(たとえ、出先で読むことがなくても)同じ本を持ち歩いていた。


ぼくは毎日、なるべく遠くへ行くようにしていた。そこは県外だったり、港だったり、1年以上訪れていなかったカフェだったりした。


ぼくは誰もいない場所、もしくは、ぼくを知らない人しかいない場所に、ほんのつかの間身を置いた。ぼくを知る人がいなければ、ぼくはそこにいないも同然だった。


ぼくは、貪るように本を読んだ。「し」に親しむあまり、だんだん空っぽになる頭や体を、ことばで埋め尽くすように。


『灯台守の話』


あらすじは話さない。調べれば出てくるから。というより、どんな話なのかは、タイトル通りだから。ある灯台守についての話。それから、灯台守が語る話。それが、この本のすべて。


灯台守は、さまざまな話を蓄えている。灯を頼りにやって来た船乗り達、それから、次の世代である灯台守見習いに聞かせるために。


読者であるところのぼくは、船乗りになったり、灯台守見習いになったりした。その話が、どんな温度であろうと、耳を傾けることは、ぼくを癒した。親しかった「し」は、遠のいたり、また近付いたりした。

言葉とは、語ることのできる静寂の一部分なのだ。

――本文より引用

1年以上ぶりに訪れたカフェで、この本を読み終えた。ぼくは、コーヒーをすすった。まずい。2時間以上読み耽っていたので、すっかり冷めていた。


ぼくは、変わらず「し」に親しんでいる。でもそれは、柔らかく照らされてもいる。生きているのも、まあいいんじゃないか。そう思わせてくれるくらいには。

11/24更新

灯台守の話 - ジャネット・ウィンターソン(訳:岸本佐知子)(2007年)

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