最初はVAN 『ヴィンセント海馬』1
最初は不安だった。
高校の入学式。いきなりパパもママも来られなくなっちゃったから不安しかない。乗ろうと思ったバスは満員が続いて
「すぐ後ろに次のバスが来るのでそちらへ乗ってください」
運転手さんに2回も言われた。バスはぜんぜん来ないし、2回とも満員で、3回目のバスには乗れたけど、良かったなんて思えない。買ったばかりの時計を見る。時計って、右腕につけるのか左腕につけるのすぐに忘れちゃう。時間に余裕を持って出たはずなのにどうしよう。きっと、かなりあぶない時間だ。
家から学校まで近いのにわざわざバスを選んだ。新しい高校には同じ中学の友だちはいない。いるかもしれないけれどよく知らない。ということはつまり、自転車通学だと帰りにボッチになる可能性がある。
もし万が一友だちができたら、その子たちといっしょにバスに乗って帰ろう。初日からボッチは絶対マズイ。教室に入ったら3秒以内に近くの子に話しかける。ここはもう、勇気を出す一択。シンプルに「おはよう」でいい。「何中?」「制服、めっちゃ似合ってるね」——ひとまず笑顔を連発だ。
バスが信号で止まるごとにつり革から手を離し、スマホで親にLINEしたり、いろいろなバージョンの作戦を頭でリアルに何度もシミュレーションしていたら、学校前のバス停を行き過ぎてしまった。しかも慌てて降りたのは2つ先のバス停。
もどるバスがなかなか来ない。渡辺さんは高校では無遅刻無欠席を目指していたのに、入学式初日から遅刻というハプニングに見舞われた。
パパとママになんて言おう。ていうか1人で遅れてクラスに入ったら・・・あり得ない。めっちゃ恥ずかしいって!
あだ名はきっと『遅刻ちゃん』になる。渡辺さんは恐れた。ついこの前、美容師さんからこんな話を聞いたばかりだったから。
美容師さん:入学式はホント気をつけた方がいいよ。
渡辺さん:緊張します!
美容師さん:俺の高校の友だちでさ、入学式におならしちゃったヤツがいるんだよ。そいつのあだ名、何てなったと思う?
渡辺さん:え? わからないです。
美容師さん:プーさん。
反対方面のバスに乗り込む。予想に反して車内はガラガラだった。脱力して席に座る。こっちは急いでいるのに――無神経なバスはノロノロと動き出す。涙でうるんだ目で、少し汚れたバスの窓越しに外を見ると、歩道をあり得ない速さで走っている男の人がいた。オレンジのド派手なジャージ。
「え?!」
渡辺さんは陸上部に所属していたからわかる。あの速さは、市民大会1位だった男子のキャプテンよりも圧倒的に速いペースだ。ゆっくりとはいえ、バスも直線ではそこそこのスピードを出しているのに、バスからどんどん遠ざかり、ついには見えなくなった。
* * *
高校の目の前のバス停を降りると、さっきのオレンジの人が待っていた。
「おはよう」
いきなり声をかけられた。
「あ、はじめまして!」
せ、先輩・・・かな?
「はじめましてじゃないよ、3度目だよ」
「3度目?」
「1度目が2月23日、2度目が3月1日。3度目が今日」
1度目と2度目は、入試の日と合格発表の日だ。
「よかった、今日は紅い」
「何が? え? 何が赤いんですか?」
「ほっぺ。あのとき真っ白だったから」
たしかに受験の日も発表の日も緊張しっぱなしで、明け方の哀しい時のお月さまのように真っペイルだったと思う。ていうかなんで赤の他人、いや青の他人のほっぺの色を覚えているの? あり得ない。
ピ ン ポ イ ン ト す ぎ る
しかもこの人が着ているジャージ・・・見たことないくらいレトロで、なんだか古着みたい。受験っていうことは同い年? でもちょっと大人っぽいし。
「センパイ・・・ですよね?」
「同じクラスだよ。1年4組。配信された名簿見てないの?」
「え!」
ヴィンセント・VAN・海馬(びんせんと・ふぁん・かいば)。彼を知っている者ならやすやすと予測がつくであろう。学年全員の名前が記載されているリストを彼に渡そうものなら、その場でひと目で暗記してしまうことを。
「わたなべ・ゆい、でいいのかな。ずっと気になっていたんだけど。結ぶって字はゆいって読みでいいんだよね?」
「わたしの・・・何で名簿だけで、わたしの顔がわかるの?」
「入試のとき隣の席だったから。受験票にも名前が書いてあったし」
渡辺結には信じられない。
テ ス ト 中 よ ゆ う あ り す ぎ
「ウソ! よくそんなの覚えているね」
「結って、きれいな字づらだったから。ゆいって美しい響きだね。なんでゆいの友だちは渡辺って呼び捨てにするの? もったいないな」
そのときの結のほっぺは、きっと月から太陽に変わっていただろう。顔マッカッカなフィーリングを隠すために、渡辺さんはバスの中で何度も練習していたフレーズを少年へ向けた。
「じゃあ・・・あの、よろしくね。えっと、名前、聞いていい?」
「オレの名前?」
「うん」
こんなとき彼はいつも迷う。そう、名前が長過ぎるのだ。
ヴィンセント・VAN・海馬。
どのパーツを伝えても結局聞き返され、説明を求められる——
「ファン」
少年はミドルネームを伝えたが、少女は誤解した。
「フアン?」
「そう」
「わかる! わたしも。めっちゃ不安」
「ん?」
「しかも・・・いきなり遅刻しちゃった」
「遅刻・・・?」
「もう8時55分だよ。どうしよう・・・」
少年は目を閉じた。彼が記憶をたどるときによくする仕草だ。
「プリントの情報が変わってないなら、入学式は9時30分からだ」
「ホントに?」
「うん。間違いない」
ラッキー過ぎる! てっきり8時半からだと思っていた。ていうことは・・・まだ1時間前! そういわれると、周りに新入生らしき人は誰もいないことに渡辺さんは気づく。
あ~あ、動揺しっぱなしだ。
おじいちゃんが急に倒れるなんて——入学式なのに。せっかくピンクの桜が散らずに残っているのに。
おじいちゃん、おじいちゃん、おじいちゃん。
何でもないといいんだけど——
でも何でもないのに、パパとママが両方ともかけつけるのはおかしいよね・・・
渡辺さんのせっかく赤くなったほっぺは再び真っペイルになった。
「おじいちゃんのことは心配してもしょうがないよ」
ヴィンセント海馬は、クライ寸前のピカピカの女子高生へ、力強く声をかけた。
「オレも、結のおじいちゃんが良くなるように祈るから」
「え?」
「めっちゃ祈る。泣くのは入学式じゃなくて卒業式だ」
おかしい。
さ す が に こ れ は お か し す ぎ る !
「ええ! なんで? なんでおじいちゃんのことまで知ってるの?」
「そんなことより、一応、急ごう」
「ねぇ、なんでおじいちゃんが倒れたの知ってるの?」
ヴィンセントは結の手をひき、スピードを上げた。
「キャー、はやい! はやいって!」
「陸上部だろ。大丈夫、ついてこい」
は っ ? !
も う い い。も う い い や
「ちょっと、ホンキで、速いって。なんでそんなに急ぐの!」
そもそも、こっちはカバンに制服、そっちは手ぶらでジャージだし。
ん ? な ん で ジ ャ ー ジ ?
「ねぇ、ちょっと」
結は手をほどいて、ヴィンセントを見つめた。
長すぎるヴィンセントのシルバーの前髪が、少し強い春風に揺れる。
「あのさ、なんで、制服着てないの?」
「ん?」
「制服。入学式でしょ」
「発想なかったって?!」
「制服が絶対なのは中学までかと思ったよ」
「いいっ! だって、合格発表のあと、採寸したでしょ」
「いや、スルーした。別にいいかと思って」
「ええ!」
「おい、お前ら。もう始まってるぞ!」
遠くで先生らしき人の怒鳴り声がした。
ヴィンセントが言った9時30分というのは、気休めのウソ情報だった。「ウソついたね!」とあとから怒った渡辺さんに対し、海馬くんは「ごめん、間違えた」と応じた。そんなはずはない。化け物級の記憶力をもってして、間違うはずがない。
* * *
予定通り、帰りもバスに乗った。
知り合ったばかりなのに。初対面の・・・あ、ちがうちがう、3対面のクラスメートのおじいちゃんなのに。自分のおじいちゃんのようにホンキで心配してくれた。無事を思いっきり祈ってくれた。そんな友だちと隣の席。男の子と並んで座って帰るとか、いきなり高校生過ぎる。
うん。たしかに、高校生過ぎるけど・・・ジャージ系男子は、バスに乗るなり、すぐに寝息を立てている。朝のバスとのレース、猛ダッシュすぎでしょ。ジャージで入学式に参加させてもらえるとホンキで思ってたのかな?
無防備に眠るヴィンセント。
不安という名前なのに、勇気づけてくれる。
強くて新しい友だちヴィンセント・VAN・海馬くん。
* * *
2人は終点のバス停で降りた。病院はあの角を曲がったところにある。
「ねぇ、海馬くん、なんで知ってたの? おじいちゃんの入院のこと」
「うーん・・・正解を知っても怒らない?」
「うん! もしかして超能力?」
この辺で一番大きい病院。おじいちゃんのお友達が手術して、助からなかった病院。
「結、大丈夫?」
「うん」
「バスの中で・・・後ろからスマホが見えたんだ」
ようやく乗れた今朝のバスに、ヴィンセント少年も乗っていたらしい。
「うわ、勝手に! わたしのLINE見たの?」
「見たんじゃない。見えた。Lookじゃなくて、Seeだった」
「え? どういうこと?」
マズイ。うっかり聞き返してしまった。英語が苦手、ということがインプットされたかもしれない。ここはごまかす一択。
「じゃあさ、今朝、なんでわたしが陸上部ってわかったの?」
「受験のときの昼休みに、話していたよ。高校入ったらもう陸上やめようかなって。じゃあ、オレ、戻る」
「え? なんで?」
いっしょに病院につきあうって言ってくれたのに――
「このジャージ、汚いから」
「なんで! 大丈夫だよ」
「結を送るだけって決めてたから。それにオレ、トレーニングあるし」
ヴィンセントは少しだけ微笑み、ダッシュでどこかへ去ってしまった。
* * *
結は不安なまま、生まれて初めて「病院の受付」というものを済ませ、病室へ向かった。
おじいちゃんは元気だった。
どうしてかわからないんだけれど、突然倒れたのに、検査したらウソみたいにどこも悪くなくて、それは本当に良かったんだけれど——
「入学式、行けなくてごめんな」
「ありがとう、がまんしてくれて」
ようやくお会計を済ませたパパとママに謝られた。
「うん、ひとりでも全然大丈夫だった」
入学式に遅刻したことは内緒にしておこう。
「で、心配してた友だち、できた?」
「うん! あのね、同じクラスにすごい子がいたんだ」
「すごい子って?」
どこから話していいのかわからなかったし、うまく話せる自信がなかったので、銀髪の少年が、見ず知らずのおじいちゃんの無事を祈ってくれたことを伝えた。
「優しいんだね」
「優しい・・・のかな?」
「ちがうの?」
「わからない。優しいっていうか、なんだろう・・・強い」
「強い?」
「うん。たぶん、強い」
ぼっちだったのはわたしだけじゃない。海馬くんのお父さんとお母さんも、入学式に来ていなかった。顔も知らないのに、なぜわかるかって? 体育館の入り口に置いてあった、出欠表に丸がついてなかったから。
「あ!」
渡辺結は、思わず笑ってしまった。
保護者の出欠表なんてどうでもいいものをインプットするなんて、まるで海馬くんみたい。ていうか、もう。制服を買ってないとかあり得ないから!
どんな高校生活になるんだろう。想像もつかない。明日からどうするんだろう、制服。
ヴィンセント・VAN・海馬
期待とVANが入り混じる。
あまりにも未知な高校生活を前に、結は思い切り走り出したくなった。
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