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誰かにとっては悪で、誰かにとっては善で。


それぞれが持っている善人、悪人の性質について。

最近、『自転しながら公転する』(著:山本文緒)の小説を読んだ。
ストーリー的には、結婚適齢期のある女性の人生を仕事、恋愛、親、と大まかに3つの内容で描いたものだった。
その小説の中で一番印象に残っていることでもある「善悪のジャッジ」についてをここでは話していきたい。
それを考えるキッカケになった内容の、一部あらすじを紹介する。

主人公の恋人は、元ヤンチャをしていたタイプで人として不安な部分もあったが、
震災のボランティアに参加したり、お世話になった人たちへの恩に厚かったりと
人としてできている部分も多かった。

結婚の話が出るようになってきた頃、
恋人の恩師に不幸があり急いで旅先から駆けつけることに。彼が車を運転し、主人公が助手席に乗っているところスピード違反で警察に止められてしまい、そこで彼の無免許(免許期限が5年も切れている)ことを警察から知らされる。
彼女は事実を受け止め切れずに、そこから彼とも音信不通になるが、その後偶然の出会いにより物語が進み、結果主人公とその彼氏は結婚をし家族を持つのである。

読み終わった後、なんとも言えない違和感を覚え、主人公の価値観と、彼の人物像を深く考えてしまった部分だった。

ここで案に提議されているのが、「人の善悪について」だと私は読み取っている。
実際、物語の中でも戸惑う彼女の思考のなかに「彼は本当はどんな人だったのか」ということが繰り返し出てくる。

ボランティアなど奉仕精神旺盛で、義理に熱い善人な一面。
どこかだらしなく不安定な過去をもつ一面と、免許が切れていても更新せずに車に乗り続けていた悪人の一面。

ここまではっきりとした善悪はなくとも、
人はみんな善悪の一面を持っていて、さらにその善悪の〝基準〟を持っている。
だがそれは、あくまでその人の側面のため、その人自信を一方的に善人、悪人、とカテゴライズはできないと思っている。

今回主人公はこの善悪を天秤にかけ、今までの彼との関係や信じられる部分、これからどうなりたいかを考えた上で、そんな彼との結婚を決めたのだ。
これが、別の女性であれば彼とは即絶縁となっていたかもしれない。

つまり、物事の善悪は予め決められているようだがそうではなく、
世の中の善悪の基準はひとそれぞれで
法に触れない限りその全ての線引きは、個人に委ねられているのではないか、と思うようになった。

例えば、昔同じクラスにいたいじめっ子。
いじめられていた張本人からすると、いくら時が経ち大人になっても絶対に許せず、大嫌いな悪人かもしれないが、
また別の、いじめっ子と仲のよかった友達からすると、昔はいたずらもしていたが
いいところもたくさんあったいい友人の1人。善人かもしれない。

あるいは例えば、浮気ばかりするだらしない彼氏。ある人からするとなにをしても許せない人間として最低な悪人かもしれないが、ある人からすると、浮気はするけど大好きな素敵なところが沢山あるいい彼氏かもしれない。

もっと極端なことを言うと殺人犯だってそうだ。
被害者家族からすると殺したいほどの憎しみをもった悪人だが、
身内からしたら犯罪を犯した最低な人間だとわかっていても、守ってあげたい大切な息子かもしれない。

善と悪は、大抵は受け取り合う当本人同士の
ジャッジの問題なのだと思う。


ある対談で、作家の朝井リョウさんがこう答えていた。

〝95歳の親を見ていた75歳の子供が、老老介護の果てに親を殺してしまった、これは同じく「殺人」という言葉で片付けていいのか〟と。


行為自体は悪でも、それがやり取りされる関係性の中では必ずしもそうではないことは世界で山ほどある。
でもそれを個人に委ねてばかりはいられない。犯罪に関わることは、キリがないので法で決められているだけなのだ。
その人の悪な部分を、その人の全部と判断して見る人もいれば、あくまでそういう一面を持っているだけだと受け取る人もいる。

どちらの考えが、正しく、間違っていると言うことはない。
ただ、線引きがそれぞれ違う、それだけなのだと思う。

この、人に対する善人、悪人、の考え方についてここ数年自分なりに深く考えて来た。

勘違いして欲しくないのが、悪な部分を見ても一部の側面だと受け入れることのできる人を「心の広い人」とカテゴライズすることだ。

決して、「許せる事が多い事=できた人、いい人」 ではない
ただその人の考え方、価値観 が〝そう〟というだけだ。

それがその人の善悪のジャッジのやり方、というだけなのに、
わりと今の世の中は、
そのような人が「できた人」と褒められる傾向があるように思う。

不祥事を起こした夫に離婚せず健気に支える妻の対応を、できた人だと取り上げたり、強い人だと賞賛したりするメディアや周りを見るたびに、
その人の価値観がただそうだっただけで、その行動が優れている、賞賛に値する、なんてことはないのに、と思うのである。

夫の浮気は許せても、ご飯の食べ方が我慢できず離婚する夫婦だっている。

ユニセフに多額の寄付をして世界の子供を救っている裏で、自分の子供は妻に任せっきりで大切にできていない金持ちだっている。

その人にはその人のライン があるのだ。


それを関わる人たちがどう捉えて、どう評価するか、ということだ。

人と深く関わると、その善悪の側面が見えてくる。
その人自身がそれに対しどう思っているかもわかってくると同時に、自分がそれに対しどう捉えているかも浮き彫りになってくる。
それが「人を知る」中での面白さだ。

周りの考えや、世の中の風潮とは別の部分で
自分のライン を自分で理解して、新しい考えに出会って躓くたびに
考え直してラインを引き直せばいいのだろう。
これからもそうやって思考をアップデートしながら、自分と、周りと、付き合っていきたい。


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