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南海トラフ巨大地震によって引き起こされた瀬戸内海沿岸での高地性集落の出現と銅鐸祭祀の放棄

 前回、弥生時代の「豊の国」では、弥生時代中期と後期の間に銅矛の形状や奉斎エリアが変わるなど、なにかしらの社会変化が生じたのではないかというお話をしました。

 今回は同じ時期、主に瀬戸内海周辺で生じた変化「高地性集落の出現」の謎を解き明かし、それが及ぼした影響についてみていきましょう。

高地性集落の分布

 高地性集落は、紀元1世紀前後の弥生時代中期から後期にかけて、主に瀬戸内海沿岸の海抜100m以上の周囲を眺望できる山頂や丘陵の尾根上などに形成されはじめた集落です。
 それまでの弥生時代の集落遺跡は、主に灌漑水源として利用できる河川下流の水田に近い平野部や台地上に形成されていましたが、なぜか農作物を大量生産するには適さない不便な山地の頂上や斜面や丘陵に突如としてつくられ始めます。

高地性集落の分布 詳説「日本史図録」山川出版社

 これまでの通説では「逃げ城」や「狼煙台」などの軍事目的での利用だったのではないかなどと、その性質をめぐって様々な議論が提起されています。また遺跡の発掘調査からは、高地性集落が一時的というより、かなり整備された定住型の集落であることが判っており、単なる監視所・のろし台といったものではなく、かなりの期間、住居を構えた場所だったことも判明してきました。
 高地性集落の用途としては、おそらく防御的性質を備えた居住地だったのではないかと思います。では、なぜ暮らしやすい低地の居住地を捨て、わざわざ不便な高地に住居を移したのでしょうか。

2000年前の南海トラフ地震

 高地性集落の分布図を見て思うことは、その分布エリアが南海トラフ地震の津波想定エリアと酷似していることです。

津波防災情報 瀬戸内海沿岸 海上保安庁海洋情報部

 その2000年前の南海トラフ地震の存在を示唆する研究報告があります。
 高知大学の岡村・松岡の研究グループは太平洋沿岸部にある湖沼の地質をボーリング調査を行い、津波が運んできた砂や植物遺骸などの津波堆積物の年代を炭素-14年代測定法で測定し、堆積物の厚さや構造、含まれる植物遺骸の量などから津波の規模を推定しました。それによると、弥生時代中期から後期に該当する2000年程前に、西暦1707年の宝永地震に相当する、もしくはそれ以上の規模の地震があったとしています。

岡村眞・松岡裕美 津波堆積物からわかる南海地震の繰り返し

 宝永地震の際には、瀬戸内海で発生した津波の規模がわかっており、各地でおよそ1~3m程度の津波が観測されています。

山本尚明 瀬戸内海の歴史南海地震津波について 歴史地震 第19号(2003)p.153

 また、いくつもの海峡によって閉じられた海である瀬戸内海では、バケツに入れた水を波の周期に合わせて揺すると波が大きくなるような共振現象が生じます。この現象は大阪湾で特に顕著に表れるようです(山中亮一「瀬戸内海における津波の波動特性とその危険度の時空間解析」)。たとえ3mの津波であったとしても、湾内や河川津波では、より大きな波が長時間、反復的に発生していた可能性があります。

 2011年に発生した東日本大震災でも、沿岸の住居地が被災し多くの犠牲が出た結果、住居を高台に移す施策が行われました。
 弥生時代中期から後期にかけての瀬戸内海沿岸地域での高地性集落の出現は、生き延びた人々が津波を恐れ、その被害を避けるために行われたのだと考えます。

銅鐸祭祀の放棄

 2000年前に発生した地震の震源地が不明なため一概に比較はできませんが、防潮堤もない低地の居住地を津波が襲い、河川下流に作られた水田も塩害や津波堆積物により長い期間使用不能になったであろうことは想像に難くありません。
 東日本大震災で津波を受けた塩害水田が降雨によって自然除塩されるまで一年を要したという報告(寺崎 寛章 「降雨による塩害水田の自然回復」)がありますが、ヘドロや海砂が堆積してしまった水田の回復には、まずそれらの除去が必要になります。水田の回復には少なくとも2~3年、もしくはそれ以上の時間が必要だったことでしょう。

 銅鐸の祭祀は五穀豊穣を祈るために行われ、秋の収穫に合わせて銅鐸を埋納地から掘り起こし、翌年の豊作を土地の神に祈願するものだったと思います。しかし、津波によって秋の収穫は失われ、翌年の田植えの目途も立たなくなってしまいました。それどころか、明日の食料をどう手に入れるかすら分からない状況に陥ったのです。

 このような厳しい状況下では、銅鐸の祭祀は顧みられることがなくなり、瀬戸内エリアでは銅鐸は打ち捨てられてしまったのでしょう。生活が逼迫し、日々の生存が最優先となる中で、銅鐸に込められた祈りは次第に忘れ去られていったのです。

食糧危機と生存のための略奪

 瀬戸内海沿岸各地の集落で同時に発生した食糧危機は、震災を生き延びた人々にとって厳しい試練となりました。現在のように他国からの救援も見込めない中で、人々は自らの命を守るために行動を起こす必要がありました。その行動の一つが、被災を免れた集落からの略奪でした。

 餓死の危機に瀕した被災者たちは、生き延びるために必死でした。彼らはある者は山中へ逃れ、またある者は海を渡り、周囲の集落へと散っていきました。食糧を求めて移動する中で、略奪は避けられない行動となり、生き延びるための手段と化しました。これにより、震災の影響は被災地を越えて広がり、地域全体に混乱をもたらしたのです。

 このように、人々は絶望的な状況の中で生き残るためにあらゆる手段を講じるしかありませんでした。この地震の影響が、弥生時代の中期と後期を分ける画期となり、勢力としては弱小であった遠賀川流域にこれらのマンパワーが流れ込むことによって、弥生時代中期の北部九州にも時代の変革が訪れることになります。

2022年の日本の食料自給率は38%

 今回の話は、弥生時代のおよそ2000年前の話ではありますが、この話が決して他人事ではなく、明日の日本の姿かもしれないということを我々は肝に銘じる必要があります。

まとめ

・およそ2000年前に宝永地震級の南海トラフ地震が発生した
・地震からの被災と略奪を免れるため、瀬戸内海沿岸部に高地性集落は作られた
・津波による水田耕作地の消失と住民の離散により銅鐸祭祀を続けることができなくなり、瀬戸内海沿岸地域の銅鐸は放棄された
・震災を生き延びた人々は食料をもとめ、震災被害の軽微な土地へ移動した


ところで、この2000年前の震災の痕跡は神話の中にも見出すことができます。

故、各隨依賜之命、所知看之中、速須佐之男命、不知所命之國而、八拳須至于心前、啼伊佐知伎也。下效此。其泣狀者、青山如枯山泣枯、河海者悉泣乾。是以惡神之音、如狹蠅皆滿、萬物之妖悉發。
故、伊邪那岐大御神、詔速須佐之男命「何由以、汝不治所事依之國而、哭伊佐知流。」爾答白「僕者欲罷妣國根之堅洲國、故哭。」爾伊邪那岐大御神大忿怒詔「然者、汝不可住此國。」乃神夜良比爾夜良比賜也。
故、其伊邪那岐大神者、坐淡海之多賀也。

故於是、速須佐之男命言「然者、請天照大御神、將罷。」乃參上天時、山川悉動、國土皆震。

古事記上巻 第一部 第一次神逐および天照の武装序文

(現代語訳)伊邪那岐命イザナギ速須佐之男命スサノヲに海原の支配を命じたところ、年齢を重ねた後も速須佐之男命はどういうわけか命ぜられた国を治めないで、泣きわめいておりました。その泣く有樣に山は枯れ、川と海は干上がってしまいました。そのような乱暴な神の物音に、皆蠅が騒ぐように万の災いが起こりました。どうしてお前は命ぜられた国を治めないのかと伊邪那岐命が聞くと、速須佐之男命は伊邪那美命イザナミがいる(地盤のしっかりした)根の堅洲国へ行きたいと泣き叫びました。
伊邪那岐命は怒って「それならばお前はこの国に住んではいけない」と彼を追放しました。伊邪那岐命は淡路の多賀に坐ます。

(淡路島のある瀬戸内海から追放された)速須佐之男命は、それなら天照大御神に申しあげてから行きましょう」と仰せになりました。天にお上りになる時に、山や川は悉く動き、国土は皆振動しました。

次回 「奴王国滅亡」


余談

・奈良県にある唐古・鍵遺跡も弥生時代中期末に集落全体が押し流された痕跡が見つかっています。これも奈良湖由来の広大な沼沢地帯で南海トラフ地震による津波か地すべりが発生した可能性があります。

・南海トラフ巨大地震の想定津波浸水域と延喜式内社の配置の関係性を調べた「延喜式内社に着目した四国沿岸部における神社の配置と津波災害リスクに関する一考察」(高田 知紀 土木学会論文集F6(安全問題)2016 年 72 巻 2 号)によると、高知、徳島にある式内社では高確率で南海トラフ地震においても浸水被害を免れる可能性が高いということです。いざという時は式内社を目指しましょう。

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