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弥生時代の九州(豊の国)

 前回は現在の福岡県西部のエリアとなる「筑紫の国」と佐賀県、長崎県、そして熊本県を領域とした「肥の国」の成り立ちについてみてきました。

 今回は、現在の福岡県東部と大分県の領域からなる「豊の国」が弥生時代はどのようなところだったのかをみていきます。なお、本稿では宗像市以東の遠賀川流域も弥生時代の痕跡から見て「豊の国」として扱います。

豊の国は「物部もののべ氏」の故郷

 『日本書紀』には、神武天皇に始まるヤマト王権よりも先に饒速日が大和を治めていたと記されています。
 民俗学者の谷川健一は『先代旧事本紀せんだいくじほんぎ』に記された物部氏の東遷を「饒速日の降臨=物部氏の東遷」と解釈し、物部氏が北部九州から河内、大和に東遷したと述べています。さらに、鳥見とみ長髄彦ながすねひこが物部氏の権力を背景に大和を支配したとしています。谷川氏は、福岡県直方市もしくは鞍手郡を物部氏の故地とし、河内・大和・摂津と筑前・筑後にまたがる一族の交流を指摘しています。

 鳥越憲三郎もまた、物部氏が鞍手郡から河内・大和に東遷したと述べています。彼は『先代旧事本紀』の饒速日降臨に登場する氏族名と地名に基づき、『和名類聚抄』をもとに考証を行い、遠賀川流域やその周辺の地名と河内・大和の地名の一致を多く見つけました。これにより、鞍手郡を中心とした地域に居住していた物部氏の主力が河内・大和へ移動したことが確実であるとしています。

福永 晋三「真実の仁徳天皇: 倭歌が解き明かす古代史」より物部氏移住元を比定

 なお、大阪府にある石切劔箭神社に伝わる伝承によると、饒速日尊にぎはやひのみことは瀬戸内ルートを通って近畿に稲作や製鉄の文化をもたらしたとしています。
 稲作と同時に伝播したということは、おそらく弥生時代前期ごろに、製鉄ではなく青銅器文化をもたらした、というのが正しいのでしょう。
 そして稲作とともにもたらされた青銅器文化は、集落の豊穣を願う銅鐸祭器として形を変え、畿内を中心に発展し、東遷を果たした物部氏族も銅鐸製造に関わる鍛冶・工人集団として縄文文化の残る畿内に融和していったのでしょう。

縄文から続く遠賀川流域の暮らし

 文献上では「豊の国」の一団が特定できましたが、考古学的にはどうでしょうか。
 北部九州では弥生時代初期から稲作が始まりましたが、当時は水田稲作だけでは人々の食糧を十分にまかなうことはできませんでした。そのため、弥生時代の生活は縄文時代の延長として狩猟、漁労、採集と水田稲作が複合的に行われていました。また、下流低平地の水田は水害の影響を受けやすく、コメの生産が落ち込んだ場合でも集落を維持するための食糧供給源が必要でした。
 菜畑遺跡(唐津市)、板付遺跡(福岡市)、木屋瀬田遺跡(中間市)などの遺跡には、干潟あるいは浅い海の近傍にあるという共通の地形的特徴が見られます。水田を補完する食糧供給源として、干潟環境が初期の水田開発地として重要な条件となっていました。
 弥生期初期の稲作が定着できる要件として、次の3つが必要になります:

  1. 木製の鍬で耕作可能な低湿な沖積地

  2. 灌漑水源として利用できる小河川

  3. 食糧の安定供給が可能な干潟の沿岸

 特に3つ目の干潟については、「豊の国」の領域となる遠賀川下流の干潟が北部九州では最大規模であり、相対的に人口集積が大きかったと考えられます。これが、弥生時代初期に西日本一帯に広がる遠賀川式土器に代表される文化が形成された要因の一つです。

松木 洋忠 遠賀川流域における古代の土木施工技術と土地開発との関係(土木学会論文集D2(土木史)2011 年 67 巻 1 号)

 豊の国にも肥の国、筑紫の国と同様に灌漑式水田稲作(弥生稲作)の適地が広がっていたことがわかりました。

「豊の国」の墓制の傾向は不明

福岡県東部の弥生時代の墓制

 前項「筑紫・肥」に続き、「豊の国」についても墓制の分布から国の成り立ちが説明できないものかと考え、ネットなどから情報収集してみたのですが、個々の遺跡の発掘資料はあれど、「豊の国」全体を網羅する学術論文が見つかりません。
 そこで、主に宗像市や遠賀川流域の個々の弥生遺跡の墓の出土状況を調べてみたものの傾向として土壙墓や木棺墓が多く、一部小児用甕棺や方形周溝墓なども見られましたが、墓制から「豊の国」としてのまとまりはわかりませんでした。
 遺跡の発掘情報はあっても墓についての情報がない遺跡も多くあり、これは腐食しない甕棺に比べ、土壙墓や木棺墓は後世に残りにくいこともサンプル数が少ない原因なのかもしれません。
 なお、大人用の大型甕棺墓については飯塚市にあるスダレ遺跡や立岩遺跡がその分布の最東端となるようです。
 墓制からは「豊の国」の成り立ちが見えてこないことから、次に青銅器について着目してみました。

青銅祭器 広形銅矛

銅矛の形態変化 1.細形・2.中細形・3.中広形・4.広形 (東京国立博物館展示)

 銅矛は、青銅製の矛であり、日本列島では弥生時代に中国遼寧地域から朝鮮半島を経由して伝わりました。これが国内で生産されるようになると、次第に大型化し、武器としてだけでなく祭器としても使用されるようになりました。

 銅矛は弥生時代を通じて、いくつかの段階に分類されます。弥生時代前期末から中期前半には、細形銅矛が墓に副葬されていたことが確認されています。この時期には、銅矛は特別な祭器として奉斎されていたようです。弥生時代中期後半になると、中細形銅矛が副葬されるとともに、埋納される例も見られ始めました。後期前半になると、中広形銅矛が朝鮮半島に輸出されるようになります。

中広形銅矛(弥生時代中期後半)

 中広形銅矛は、弥生時代中期後半にかけて広く分布した青銅器の一種で、主に春日丘陵において一大青銅器生産拠点が形成され、筑肥の勢力圏で広く分布しました。興味深いところは、甕棺墓文化を受け入れていない、対馬と南四国、出雲にまで分布していることです。そして、豊前エリアからは出土していません。

 青銅器の出土分布から推測すると、関門海峡を通らない交易ルートとして
 対馬-筑紫ー日田ー豊後ー土佐の経路を用いていたように思えます。

吉田広 弥生青銅器祭祀の展開と特質

広形銅矛(弥生時代後期)

 広形銅矛が普及する弥生時代後期になると、銅矛は大型化し、北部九州地域では副葬品としての青銅器が衰退し、埋納品が増加しました。

 北部九州を中心に広く分布し、その後、九州島から対馬、豊前・豊後地域、四国南西部にまで広がりました。特に対馬では、多数の広形銅矛が出土しており、地域特有の青銅器文化を形成していました。
 さらに大変興味深いことは、中広形銅矛では疎外されていた豊前が広形銅矛ではメインストリームとなったことです
 
対馬や筑紫国、そして四国南西部も含まれてはいますが、「豊の国」としての一体性は弥生時代後期の広形銅矛の奉斎をもって始まったといえそうです。

吉田広 弥生青銅器祭祀の展開と特質

 交易ルートに関しても関門海峡を使えるようになり、山越えをしなくても良い、対馬-豊前ー豊後ー土佐の経路に代わったことでしょう。

まとめ

・豊の国(豊前エリア)は、物部氏の故郷だった(少なくとも弥生時代前期以降)
豊の国の墓制は不明(詳細調査求ム)
筑紫の国豊の国(豊前エリア)は、弥生時代中期まで甕棺墓と青銅器の分布から文化的繋がりが見当たらない
・弥生時代中期の中広形銅矛の分布では豊前エリアが除外されている
・弥生時代後期に広形銅矛を奉斎し、豊の国(+対馬+西南四国)の体裁が整う

 弥生時代中期後半と弥生時代後期の間に一体なにが起こり、銅矛祭器の世代交代と奉斎地域の変更が行われたのでしょうか。

 次回、「南海トラフ巨大地震によって引き起こされた瀬戸内海沿岸での高地性集落の出現と銅鐸祭祀の放棄」についてみていきましょう。




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