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奴王国滅亡

 前回は、西暦1世紀頃に発生した南海トラフ巨大地震によって、瀬戸内海沿岸に暮らす人々が難民となり、古事記上巻のイザナギによるスサノヲの神逐はそのことを表していると言及しました。

 今回は、「スサノヲ」の人々がどこに行き、何をしたのか、まずは古事記の続きをみていきます。

スサノヲ高天原へ

爾 天照大御神 聞驚而。詔 我那勢命之 上來由者。必不善心。欲奪我國耳。
(略)
待問。何故上來。
爾 速須佐之男命答白。僕者無邪心。唯大御神之命以。
問賜僕之哭伊佐知流之事故。白都良久。
僕欲往妣國以哭。爾大御神詔汝者。不可在此國而。神夜良比夜良比賜故。
以爲請將罷往之状。參上耳。無異心。
爾天照大御神詔 然者汝心之清明。何以知。
於是速須佐之男命答白 各宇氣比而生子。
故爾各中置天安河而。宇氣布時。

古事記上巻

(現代語訳)(スサノヲがこちらに来ることを聞くと)アマテラスは驚いて、「スサノヲが来るのは良からぬことを考えているのだろう。私の国を奪つもりかもしれない」と呟いた。
(略)(そしてアマテラスはスサノヲに)「どういうわけでここに来たのか」と問いただしました。
 そこでスサノヲは、「私に邪心はありません。ただイザナギの仰せで私がきわめいている理由を聞かれたので、私は母上の国に行きたいと思い泣いておりますと申しましたところ、イザナギはそれではこの国に住んではならないと言われ追い払われてしまいました。そのためお暇乞いです。異心はありません」と言いました。
 そこでアマテラスは、「それならお前の心の正しさはどうすればわかるのか?」と質問したので、スサノヲは、「誓約うけいを立てて子を生みましょう」と言いました。
 そして天の安河をはさんで両者は誓約を立てました。

<スサノヲが生んだ神>
多紀理毘賣命 亦御名謂奧津嶋比賣命(坐胸形之奧津宮
市寸嶋比賣命 亦御名謂狹依毘賣命(坐胸形之中津宮
多岐都比賣命(坐胸形之邊津宮

<アマテラスが生んだ神>
正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命
天之菩卑能命
天津日子根命
活津日子根命
熊野久須毘命

 まずこの争いが起こった場所ですが、太字で表した天安河、胸形之奧津宮、胸形之中津宮、胸形之邊津宮、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命の五ヶ所から、宗像三女神を祭る宗像市、筑前国夜須郡を流れる夜須川(現朝倉市の小石原川)周辺、そして正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命を祭る英彦山が想定できます。これはちょうど筑豊の境界線に位置しており、アマテラスとスサノヲの誓約が北部九州を舞台にしていることがわかります。
 なお「胸形之~宮」の表記は古事記にはありますが、日本書紀には見当たりません。

 そして男神を産んだアマテラスは敗北し、女神を産んだスサノヲが勝利しています。

爾速須佐之男命。白于天照大御神。我心清明。故我所生子。得手弱女。
因此言者。自我勝云而於勝佐備 離天照大御神之營田之阿埋其溝。
亦其於聞看大嘗之殿。屎麻理散。
故。雖然爲。天照大御神者。登賀米受而告。如屎。醉而吐散登許曾。
我那勢之命爲如此。又離田之阿埋溝者。地矣阿多良斯登許曾。我那勢之命爲如此登。詔雖直。猶其惡態不止而轉。

古事記上巻

(現代語訳)そこでスサノヲはアマテラスに「私の心が清らかだったので、私の生んだ子が女だったのです。それ故、当然私が勝ったのです」といって、アマテラスの田の畔あぜをこわしたり溝みぞを埋うめたり、収穫を祭る大嘗殿で排泄をするなど、勝った勢いに任せて乱暴を働きました。
 このようなことがあってもアマテラスはとがめたりせず、「ところかまわず排泄するのは酒に醉ってのことなのでしょう。田の畔を毀し溝を埋めたのは土地がもったいないと思いそのようにしたのでしょう」と仰せられましたけれども、その後もスサノヲの乱暴狼藉は止やみませんでした。

 勝利を宣言したスサノヲは、アマテラスの領内に居座ることになり、田畑を壊すなどの乱暴狼藉を繰り広げます。
 そしてアマテラスは、スサノヲの横暴にも耐え、共存する道を選んでいます。

古事記の解釈

 戦闘の具体的な描写はありませんが、飢えた異文化の民衆の駐屯を許すことになった背景には、戦闘行為によう勝利があったと想像できます。
 とくに誓約の行われた安川(筑前国夜須郡)に近い平塚川添遺跡は、最大六重の多重環濠を持つ遺跡として、その戦闘の激しさを物語っています。

 攻勢主体 スサノヲ(瀬戸内系流民)が豊の国方面から筑紫に侵攻
 防衛主体 筑紫勢力(主に筑前エリア)
 戦闘結果 筑紫勢敗北 稲作エリアにスサノヲの進駐を許すことで和睦
 

 では、西暦1世紀頃の筑紫はどのようなところだったのか見てみましょう。

西暦1世紀頃の筑紫

 当時隆盛を極めていたのは、大和時代の儺県なのあがた(現在の福岡県福岡市・春日市に相当)の領域に存在したと推定される奴国です。奴国には、弥生時代の初期に農耕が開始された、板付いたづけ遺跡や雀居ささい遺跡など、那珂なか川・御笠みかさ川中流域の低い台地に位置する集落や、春日丘陵北端の低台地帯には約200haの範囲に広がる須玖すぐ遺跡群がありました。特に弥生中期の須玖岡本遺跡の甕棺墓の被葬者は前漢の銅鏡を30面以上持っており、これは奴国の王墓だと考えられています。

漢委奴国王印

 奴王国の栄華の象徴として、後漢の光武帝の時代、建武中元2年(西暦57年)に奴国王へ贈られた金印があります。

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳

(現代語訳)「建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国が朝貢してきた。使者は大夫と名乗り、倭国の南の世界を極めたと報告したので、それを知った光武帝は印綬を与えた。」
(古田 武彦 「王朝多元ー歴史像 倭国の南界を極むるや」より意訳)

 このように弥生時代中期には栄華を誇った奴国ですが、およそ2000年前の弥生時代の中期から後期にかけて劇的な変化が訪れます。

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弥生時代中期末の北部九州に訪れる変化

 甕棺墓文化の衰退

 「弥生時代の九州(肥の国・筑紫の国)」でご紹介した筑紫・肥国の墓制であった甕棺墓の風習が、弥生中期から後期にかけて、その分布範囲と規模が縮小します。

 弥生中期には筑紫の国、熊本県宇土半島あたりの肥の国や日田市にまでの最大分布域(上図III)を示していた甕棺墓文化ですが、弥生後期にあたる立岩式から曰佐原式の時期(上図IV)になると、その分布を徐々に縮小しはじめ、奴国の本拠地である福岡・春日では甕棺の使用は衰退し、土壙墓や木棺墓、そして方形周溝墓など他の墓制への転換が進んでいきます。
 曰佐原式の後期(上図V)に至ると、甕棺の分布はさらに限定され、伊都国の本拠地である糸島市や日田市などで特殊に展開されるのみとなります。

 奴国金印の埋納

 王権の象徴レガリアであり、栄華の象徴でもあった「漢委奴国王印」を弥生時代の墳墓ではなかった志賀島に埋納せざるを得ない事態が生じています。

 銅矛祭祀エリアの変化

 また、「弥生時代の九州(豊の国)」でも触れましたが、弥生中期までは筑紫国で奉斎されていた中広形銅矛が弥生後期になると大型化し、筑紫国とは文化的に相いれなかったはずの豊の国でも、新たに広形銅矛として奉斎されることになります。

 本来、伊都国は鏡、物部氏は剣を奉斎する氏族(宝賀寿男「物部氏: 剣神奉斎の軍事大族」)ですが、それらの国々を跨って広形銅矛が奉斎されているのは宗教的な理由としてよりも、経済的な都市国家連合の証だったのではないかと推測しています。

 弥生時代中期に北部九州の盟主として隆盛を極めていた奴国は、西暦57年に後漢から金印をもらった後に、甕棺墓文化の衰退や、奴国王墓の消失、そして金印の埋納という奴国王権の影響力低下に見舞われています。
 また、西暦3世紀頃の奴国には王の存在がいないことが魏志倭人伝からわかります。
 征服され、王が追放された奴国がこの後どうなったのか見ていきましょう。

 奴国の遷都

 久住猛雄「3世紀のチクシと三韓と倭国」によると、この時期、王墓のあった須玖岡本遺跡から、比恵・那珂遺跡へ奴国の中心地が移動しています。比恵・那珂遺跡は、福岡市博多区に位置する弥生時代後期の大規模な集落遺跡で、およそ164ヘクタール(比恵65ha、那珂83ha、山王15ha)となっておりディズニーランドとディズニーシーのおよそ1.6倍の規模の都市として機能していました。
 弥生中期後半には墳丘墓が大型化し、これが社会の階層制や首長の威信を象徴していましたが、後期に入ると墳丘墓の大型化は減少し、その象徴的な役割は薄れました。とはいえ、階層制や首長権力自体が後退したわけではなく、集落の構造や規模から、依然としてこれらの存在が確認できます。
 遺跡の中心には、方形区画環溝が位置し、広大な倉庫群エリアや集約化された工房エリア、そして運河(船溜)が存在していたと考えられます。遺跡内には直線的な条溝が縦横に配置されており、これが都市的な景観を形成していました。また、段丘北部を東西に横切る幅30メートルもの大型水路(運河)の屈曲部には、長大で堅牢な井堰が設けられていました。この井堰には、九州に自生しないスギ材が使用されており、遠隔地からの運搬が行われていたことがわかります。
 また比恵遺跡からは広形銅矛の鋳型も見つかっており(後藤直「弥生時代の青銅器生産地-九州-」)、占領後の奴国を生産拠点として対馬から土佐にかけて広形銅矛を供給していたと考えられます。

 交易ルートの拡大

 比恵・那珂遺跡からは、多種多様な遺物が発見されており、長距離交易の証拠が数多く見つかっています。これには、中国系の遺物や水銀朱原料の辰砂、韓半島系の遺物が含まれます。また、瀬戸内系高杯など日本列島各地からもたらされた遺物も多く発見され、広範な交易ネットワークの存在が明らかになっています。

 また伊都国にあたる三雲遺跡は、奴国に代わり交易の中心地として壱岐にある原の辻遺跡との間の「原の辻=三雲貿易」を展開するようになりました(白井克也「勒島貿易と原の辻貿易」)。伊都国は広形銅矛文化圏のみならず、倭国と中国、韓半島の貿易港として発展し、この貿易路は「博多湾貿易」がはじまる古墳時代の初めまで続いて行くことになります。

 また、これより200年程後の時代を伝える魏志倭人伝には対馬、壱岐、奴国、不弥国で副官の役職名が「卑奴母離」となっています。これはちょうど広形銅矛の奉斎エリアと一致し、エリア共通の官職名だったのかもしれません。なお、王のいる伊都国は副官名も独自のものとなっています。

魏志倭人伝

倭國王帥升「等」

安帝永初元年 冬十月倭國遣使奉獻(本紀)安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見(列伝)

後漢書 安帝紀・東夷伝

(現代語訳)安帝の永初元年(107年)10月、倭国が使いを遣わして貢献した。(本紀)安帝の永初元年、倭国の帥升王等が160人の奴隷を献じ、謁見を請うた。

 後漢書には、西暦107年に倭国の帥升王が後漢に遣使したとあり、この帥升が何者なのかは謎とされています。後漢書のはこれで終わっており、奴国のようには金印をもらえなかったようですが、広形銅矛を奉斎する都市経済同盟として、複数の代表者を立てたのであれば(倭國王帥升「等」)、後漢としても誰に金印を与えればよいのかわからなかったのかもしれません。

北部九州のその後

 古事記によると、スサノヲ(瀬戸内勢)のあまりの乱暴狼藉にアマテラスは引きこもりになってしまい、途方に暮れた神々(近隣諸国)は合議の上、スサノヲを再び追放します。
 その後、スサノヲは山陰地方へ侵入していくわけですが、ここら辺の話はまた別の機会にお届けしたいと思います。


まとめ

(古事記から)
・南海トラフ地震に端を発した瀬戸内系流民(スサノヲ)が豊の国方面から筑紫に侵攻し奴国王権を打倒した
・スサノヲは奴国領に留まり、農耕系民族と軋轢が生まれた
・アマテラス勢力は奴王国滅亡後も存続し、スサノヲと共存の道を選択

(考古学的観点から)
・奴国王権消失後の新生奴国は首都の遷都を経て都市機能が向上し、生産・物流拠点として発展した
・伊都国は隣接地の奴王国が滅亡した後も王権が残り、倭の対外貿易の窓口として発展していった

 奴国滅亡後、そこに駐留する異文化民を疎んじながらも、大陸や半島との交易窓口としての利権を得て発展する伊都国とアマテラスの姿が重なって見えてきます。
 そして西暦3世紀、伊都国には、かの邪馬台国も出先機関として常駐の一大率という物流窓口を設置することになります。
 

原田大六 「実在した神話



余談

物部氏の痕跡

古事記からはスサノヲばかりが目立ち、遠賀物部氏の豊国勢の姿が見当たりませんでしたが、広形銅矛エリアに物部勢と思われる痕跡が残っています。

北部九州(遠賀物部)
 信仰(剣岳・八剱神社剱神社
 筑前国夜須
 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命英彦山神宮

四国(土佐物部)
 信仰(剣山
 土佐国香美郡夜須
 天忍穂別神社(別名:岩舟神社)ニギハヤヒの岩舟伝説あり

 物部ものべ村は1956年9月30日に香美郡槙山村、上韮生村が合併し発足した比較的新しい村。市町村合併により、現在は香美市物部町となっている。物部村となったいきさつは不明。当地には陰陽道や古神道の一つといわれるいざなぎ流が伝わる。

物部氏は勢力圏の外縁にランドマークを置くことを好むようです。
その痕跡は近江にも。

近江(近江物部)
 信仰(劒神社
 近江国野洲
 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命太郎坊宮

 福井県の剱神社では忍熊王を剱御子として祀っています。
 神社の古伝では、忍熊王は生き延びて越前織田の地へ来て、この地方で人々を悩ませていた賊を退治してから若死にし、そして人々は忍熊王を神として祀ったという。
 忍熊王は最後、近江に逃れようとしています。仇敵の息長氏の領地に逃れるはずもなく、おそらく息長氏が近江の出身という説は、物部の旧領を接収した結果なのでしょう。

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