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てくてくちむたかのすけ7

2022.4月9日
前回のあらすじ
そうか!コレの名前はカートか!!

ありがとうNakaさん!

というわけで前回一から五ある曲輪のうち、右に旋回しながら階段を登りかつて門のあった三の曲輪にヒールで到達した。

ここを登り切ったところから始まりますよ。
三から見た一、二

三の曲輪は開けた広場のようになっている。
パンフレットに載ってた想定復元図でもあまわりパークにあったジオラマでもここに大規模な建築物のあった様子はない。

それはここが「御庭(うなー)」と呼ばれるところのため。屋外の広間的なもの。

あまわりパークのジオラマ

二の曲輪には政治的要所としての建築物があり、三の曲輪からその建物を拝する作りになっている。
首里城だと入ってすぐ紅白の広場があり正殿がドンっとありましたが、お城に多い様式らしい。

首里城に置き換えると

勝連城跡の場合は二の曲輪にあった建物はこのような華美の極みの建築ではなく茅葺のものだったとか。
まあ首里城のできる以前の建築だし、費用規模も違いますから。当たり前ですな。

石積みから海を望む
あおーい
南風原の港町

三の曲輪から上に行くにつれ、さらに景色は良くなっている。南風原(南風原)という港町だ。
漁港の名前は「南原(みなみはら)漁港」

沖縄南部民だと、南風原というと南瓜の美味しい南風原町をつい思い浮かべる。
しかしここにも南風原という地名が根付いている。
読み方も同じ「はえばる」。南風をはえというのは季語や古語に強い方はご存知かも。

これは余談だが、
「原=ばる」は九州以南によくあるらしい。
沖縄には「原名(はらなー)」という小字の地名が割り当てられていた。その名残が残ってる土地も有れば今は活用されず忘れられた原名も存在する。
私の地元「伊地当原」などね。今は呼ばれない俗名。

肝高の御嶽
トゥヌムトゥ
ここに神人(かみんちゅ)たちが座り儀式(ウマチー)を行った。

ウマチーという行事は今ではあまり馴染みのない家庭もあるかも。うちはとっくに廃れた。那覇市はあまり行われないようだ。
旧暦の2.3.5.6月の15日(満月)前後の豊穣祭の事だが、昔は推奨されておりノロ(政官神女)や神人(かみんちゅ)と呼ばれる人を中心に執り行われる。

仏教や神道などの伝来系は別として、沖縄の宗教は女性が仕切ると決まっていた。
「オナリ信仰」というもので、グスク時代の王様たちの姉妹は皆神官として扱われるのだ。
それは王様よりも偉く、時に影の実権者だった。

とにかく勝連城跡にもそんなウマチーとかする御嶽やら火の神(cv古谷)などいくつかの拝所(うがんじょ)が見つかってるんだねー!

はー!すぐ脱線する!自分でびっくりする!
もう二の曲輪に行こう。脱線する前に。

二の曲輪の階段は楽でした。

78段!
ちょんもり生えた葉っぱ可愛い

二の曲輪に火の神(=ウミチムン)という台所の神様の拝所があるんだけど写真ない…。
「あまわりパーク」で絶賛放映中のアニメではCV古谷なのに。なんということだ…。

二の曲輪は正殿的なところ!
礎石など建築の何かがぽこぽこ!

茅葺きか板葺きの屋根のお城と推測される一方、大和系の瓦が出土している事から仏殿のような瓦葺きの可能性も!

大和系瓦たち!
実は当時は大和瓦が主流。「沖縄といえば」な赤瓦はまだなかった。
神々しい写真撮れた!
何かな?何かな?
穴だ!

もうワンチャンスください!続く!

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