tansu tansu revolution

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いい写真がわからなくなった。

いい写真がなんなのかわからなくなった。 自分の撮る写真を、良いと思えなくなった。 昔はもっと、自分の撮る写真を自分でちゃんといいと思えていた。誰に良いといわれなくとも、自分がまず良いと思ってるならそれで幸せだった。 見る人から言わせたら、昔も今もそんな変わらないよ、って言われるだろう。 でも、昔の自分の写真の方が好きでいられた。 それは、うまいとか下手とかそういうことじゃなく、ただ被写体を捉えた瞬間に、こころが子供のようにはずんできらめくような感動があった。その一瞬の呼

    • 本籍は地球だったはずなのに

      考えていることが周りに一切理解されなかったり、話す言語のすべてが風が吹くように人々の耳をすり抜けて行く様子ばかりを見ていると、以前テレビで見た、シソンヌの長谷川さんがコンビ結成前にNSCでじろうさんと初めて出会った時の話として話していた「ネタの世界観だけは出来てるのに、一切周りに理解されてないじろうがいた」という話を思い出す。自分の良いと思ったネタを周りに一切理解されなくても、それでも折れずに一人でそれをやり続けられたのは、なんでなんだろう。そこにどんな心があったんだろう。

      • 器だけが

        そこに器だけがあった。男がいた。 器の中には、死んでもう動かない魂が横たわっていた。 男はそれを墓に埋めるでも弱りかけていた頃に病院に連れて行くでもなく、ただ器の中にそれを抱えて時だけが経過していた。死後硬直しているそれはもうかつての魂ではないようだった。 それは、魂の遺体遺棄という罪であった。 男はもう動かないそれにジョーロで水をやった。 金を沢山出しさえすれば手に入るジョーロで、ありったけの水をやった。(feat.何か変わるかもしれないと思った) でも、もうそれは動かな

        • どうしたって救われない時、もういつのまにか自分の救い方がわからなくなってる時、どうやって人は救われ方を見つければいいんだろう ただ小さな絶望だけが肩に積もっていく毎日でなにもする気が起きず自分を救えない→それを世界に吐き出す→魅力の失われた人間は世界から愛されない→また自分を救えない、の無限ループで

        いい写真がわからなくなった。

          ぽろぽろとこぼすなかで

          ぽろぽろと言葉をこぼすなかで涙が出た時が本心で、奥底に眠っていた、気づいてほしかった本当の心で、悲しいから涙が出るのではなく、涙が出るからこれが一番本当の気持ちだったんだ…とダウジングされる。

          ぽろぽろとこぼすなかで

          スーパーに行ったら手をつないで買い物をしている女性2人組を見た。手をつないでるだけでカップルではないのかもしれないが 男でも女でもなんでもいいから「大切な人がいる」、ただそのことが羨ましい。誰に何と言われようと揺るがないような、自分がそれを正解にしてしまえるような、自分にとっての「絶対」がほしい。

          「推し」を好きでいることとコンテンツを好きでいることが共存しない時、

          そういう時が、みんなにもあるのか気になる。基本的に、こういうことしか起きずに最終的に自爆して終わって行く。 最初、あるキャラクターでの演技や表現を見て甚く感動したりして「この演じ手の役者さん良いな」と思い、好感を抱く。そして、その演じ手の方が出ている他の作品などにも触れていくようになる。最初は、触れる世界のすべてが新鮮で、どんな作品であっても、また「推し」がどんな人間であっても、追うことがすごく楽しいと思う(大体1年くらい)。でも段々と、この人の見せてくれる表現の、「こうい

          「推し」を好きでいることとコンテンツを好きでいることが共存しない時、

          生活をなんとかしたくて仕事帰りに温泉に行った。土曜日だったので小さい子を連れた浴衣の家族連れが多く、プレイランド的なところで太鼓のゲームを並んで遊んでいるお父さんと小学生ぐらいの息子の2人、軽食を食べている家族、楽しそうな子たち、いつかこの子たちが大きくなった時に、この日のことを覚えているのか、きっと覚えてなくて記憶にあるのは大人たちだけかもしれないけど、この子たちが覚えていて思い出になっていたらいいな、と思うとすこしだけ泣きそうになったけどこれも感傷。墜落していくさなかの飛

          僕が歌う僕のためのラララ

          むかしゃべがおもしろい。最近、聴き始めた「チュウモリ #むかいの喋り方」。パンサーの向井さんがCBCラジオでやっている番組。オードリーのオールナイトニッポンで番組名が少し出ていたのもあって気になってここ数週で聴き始めた。 何週か前の放送で、有村架純への並々ならぬ熱意を語ったかと思いきや、同じ日の放送の直後には、パーソナリティー本人が最近うまくいってないという仕事のリアルタイムな悩みから発展しためちゃくちゃ真面目な人生の事が前者と同じくらいの熱量で語られていた。落差がすごか

          僕が歌う僕のためのラララ

          綺麗なものを見て、綺麗な音楽を聴いて、なにかを想像していけるだけで、それに繭みたいに包まれるだけで、それでもうなにもいらないと思うことがある。

          恋愛と性欲の当たり前のこととか。

          https://twitter.com/_kkkita_/status/1270335241274589190 これでも思い出したけど、以前、新聞の人生相談をまとめた本で「恋愛感情がないのは異端か」みたいな問いに対して、ある作家の方が言っていたことを聞いて思っていたことがあった。 その作家の方は「恋愛という概念は明治に西洋から持ち込まれた」とした上で、「明治の青年たちは、<西欧で流行(はや)っている『恋愛』というものをしてみたい>と憧れ、誕生したばかりの女学生に「精神的な

          恋愛と性欲の当たり前のこととか。

          4年に1度の人生オリンピック。

          4年に1度の人間の人生オリンピック、いろんなものを亡くした。そのたびに新しいものを得てきた。 1度目は、2003年、中2の頃、祖母が死んだ。それまでは中学から部活が終わって帰宅しても毎日、5時間ほど深夜までなぜか勉強しつづける生活だったのが(受験のためでもないし強制でもない、好きで自主的にやっていた)、一緒に住んでいた祖母の容体が急変して入院してから1週間ほど放課後お見舞いに行く生活をつづけているうちに、生活リズムが変わり、家に帰ってからの勉強を一切やらなくなった。音楽とか

          4年に1度の人生オリンピック。

          「歌われているのは自分のことだ」と言えずにいる。

          何かの曲を聴いて、その曲の歌詞で歌われていることがまさに自分の今の状態でも、一番美味しいところの横取りのようでそれをそのまんま言えずにいる。 amazarashi の「しらふ」を昨日昼下がりの公園で仕事前に聴いていた時、「ああ…歌われているのはまさに今の自分だ…」と思った。 少し救われた気がしてTwitterに呟きかけたけど、人が命を削って作り上げたものを、その最後の美味しいところだけを借りてきて、自分の言葉のように、安易に自分の感傷を語るための道具にするのもなんだか違う

          「歌われているのは自分のことだ」と言えずにいる。

          「オタクはなぜ、”推し" や自ジャンルを他人から褒められた時に(ありがとう!)という言葉がまず口をつくのか」問題。

          「オタクはなぜ、”推し" や自分の好きなジャンルを他人から褒められた時に(ありがとう!)という言葉がまず出てくるのか」問題。 以前、2年ほど前に気になっていたことだが、昨日、友人からLINEであらためてこの問いを投げかけられて、そういえばやっぱり、なんでなんだろう…?と疑問になった。 LINEは、友人A・女性(某ドラマ作品や2次元系のオタク)、友人B・男性(バンドとか漫画が好きだけどたぶんオタクではない)、自分(声優さんやアニメは好きで呼吸するようにイベントとかも行ったり

          「オタクはなぜ、”推し" や自ジャンルを他人から褒められた時に(ありがとう!)という言葉がまず口をつくのか」問題。

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          悪に手を染めても、寿命が縮んでも、それで生きたい気力が やりたいことが なにかをしたいという欲求が生まれてくるなら 僕はそれでも良いんだよ 本当に本当に良いんだよ。