「オタクはなぜ、”推し" や自ジャンルを他人から褒められた時に(ありがとう!)という言葉がまず口をつくのか」問題。

「オタクはなぜ、”推し" や自分の好きなジャンルを他人から褒められた時に(ありがとう!)という言葉がまず出てくるのか」問題。

以前、2年ほど前に気になっていたことだが、昨日、友人からLINEであらためてこの問いを投げかけられて、そういえばやっぱり、なんでなんだろう…?と疑問になった。

LINEは、友人A・女性(某ドラマ作品や2次元系のオタク)、友人B・男性(バンドとか漫画が好きだけどたぶんオタクではない)、自分(声優さんやアニメは好きで呼吸するようにイベントとかも行ったりするが、マインド的にオタク……になりきれていない気がずっとしている)ーーの3人のグループだった。

友人Aは、自ジャンルが他人から褒められた時、例に漏れず「ありがとう!」と言葉が出る気持ちがすごく分かるひとらしい。逆に、友人Bと自分は、その気持ちをどうも今まで感じたことがないタイプ。

自分に置き換えて考えてみた時、例えば、好きな声優さんについて「あの作品見たけど、○○さんのお芝居、すごいかわいくてよかった!」など友人に報告してもらえると、もちろん嬉しい。嬉しいけれど反応に困って「えっあああっ!ほんと?!いや~あそこのシーン、すごいかわいかったよね~^^」という若干キョドりつつの「共感」メインの返しになってしまう気がした。「ありがとう!」とか「○○ちゃんをよろしくお願いします!」みたいな 間髪入れないよくある反応がどうも本能から湧き上がって来ないのだ。

自分は今まで、"推し"を褒められた時に「ありがとう!」と返すのは、好きな対象と自分をほぼ「イコール」で同化して見ているからなのでは、と思っていた。(宗教の神のように目線を上に眼差す、距離の遠い存在でなく、同じ目線の、もっと身近で言い方はあれだが半径数メートルの所有ゾーンにある存在として) 

というのも、褒められて「ありがとう」って返す時って、大体、自分のことが多いのではないだろうか。

着ている服が「かわいい」と褒められたら嬉しいし「ありがとう」と返す。乗っている自転車が「かっこいい」と褒められたら嬉しいし「ありがとう」が自然と出てくる。それは、所有しているそれらを選んだ自分のセンスや感覚が褒められたことにつながるからで、推しや自ジャンルが褒められた時に出てくる「ありがとう」も、間接的に自分の「好き」の気持ち、ひいては自分自身が認められたことへの喜びも共存しての「ありがとう」なのではないか、と思っていた。

(例えば、飼い犬が道行くひとに「あら、かわいいわね~」と褒められて「ありがとう」と返すひとも一定数いると思うが、自分はその反応が秒で出て来ない。「ありがとう」というのがなんか変な気がしてしまう。飼い犬はたしかにすごくかわいい家族だけど、犬は他者だしな…自分が褒められたわけじゃないのに「ありがとう!」と返すのもなんか変だよな…みたいな気持ちがあることに気づいた。で、もしかして「他者」と「自分」との圧倒的な分断の感覚が私の中にすごく根付いていて、だから、「他者」である"推し"的なモノを褒められても自然と「ありがとう!」にはつながらないのか?とふと思ったのだった)

ただ、グループLINEで友人Aが話していた見解を聞いたところ、どうやら上記の考え方も違うらしい。

友人Aいわく、「本当に対象が好きなので、心底感謝の気持ちからくる『ありがとう』」「好きな対象を多くのひとに知ってもらいたい、広まってほしいと思っていて、その第一歩が褒めてもらう、ということだから、『ありがとう』となる」のであって、「推しが褒められたことで、自分も認められた、みたいな自分への喜びは一切ない」とのことだった。

なんと……仮説が覆された。

そして、「好きな対象を、我が子のように思っている気がする。愛おしい、尊いものと思う」とも返ってきた。友人Aの別のオタク友達も、そういう感じの考えらしく、2人共感されてるようだった。

我が子……ん……?ということは、好きな対象を、身近なゾーンのテリトリーにあるもの、イコール「自分」として扱うという意識が深層であるのでは?「自分」に近いものが認められたことにつながるから「ありがとう!」なのでは?と思ったけど、やっぱり違うらしくて、ますます、「オタク、好きなジャンルを褒められた時に(ありがとう!)と返しがち」問題の答えがまったくわからなくなった…。もっとサンプル数を集めて理由を知りたい。

あと、友人が言うような、「普及欲」というか、「良いもの、自分の好きなものを世界に知ってほしい」「推しのよさを広めたい」って、分解して考えると、どの気持ちが根源なんだろう。共感しあいたい、という気持ち?でも、推し武道のえりぴよさんみたいに、本当に推しの幸せだけを無償の愛で願っているひともいて、それは「共感しあいたい」みたいに主語に自分自身の成分を交ざらせた気持ちとは、また違う気がする…。なんだ、なんなんだ…オタク……奥が深すぎてわからない……だれかオタクの心理を教えて……

◆ちなみに◆

他者を「イコール自分」と捉える件について、自分は、まったく他者を他者として切り離して考えているかというと、たぶんそうではない。西に好きなアーティストの曲があれば、その音が狂おしいほどに好きすぎて「いっそ自分の身を粒子レベルまで細分化して五線譜に乗ってその音を構成する音符の一部になりたい」と息するように思うし、東に好きな顔面の俳優さん(異性)がいれば、「明日、朝起きたらあの顔面になっていたい(presented by ジャムおじさん)」と冗談でなくよく思う。

(夕飯に食べたシイタケがあまりに美味しかった時、口に入れた瞬間「ああ…シイタケになりたい…」と脳直で思う……とかもよくあるので、対象はわりと幅広い)

自分のこの身が消えてなくなったとしても、好きな対象の中にインポートされたい、という、ある種暴力的かもしれない「同化願望」はすごくあり、好きで活動を追う声優さんに対しても、その声優さんが輝けば輝くほど、それはすばらしいことの反面、そこに追いつけない、圧倒的分断がある位置にいる自分自身に毎回すごく落ち込む。本来は雲の上の存在で、比べるのもおこがましいし笑われるようなことだとわかってるけど、「追いつきたい」という同化願望を持ってしまっている。(前、フォロワーさんと話したとき、「自分がなにをしたところで、結局そのひとにとっての何にもなれない、みたいな分断や途方もない溝に気づいてしまった虚無」という、とても気持ち悪い話をした時、それを引かずに聞いてくれたフォロワーさんには感謝している……)

ただ、この捉え方からもわかるように、自分は好きな対象と溶け合って「同化したい」とは思ってるけど、それは逆に「今、完全に自分と相手は別物だ」という切り離された認識がある、ことの証明にもなっていて。決して手に入らないからこそ、それを望むきもちが加速する感覚。

だから、自分のなかにインポートできておらず圧倒的に他者だと思っている「好きな対象」のことを褒められても、要は自分自身のことじゃないから「ありがとう!」ってそこに対してならないんじゃないかな、と思ったわけです。思ったわけなんですが、そんなこと考えてた直後に、友人Aからの↑のLINEの返信(イコール自分、という認識ではない、というもの)が来たから、振り出しに戻ったという。な。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?