「推し」を好きでいることとコンテンツを好きでいることが共存しない時、

そういう時が、みんなにもあるのか気になる。基本的に、こういうことしか起きずに最終的に自爆して終わって行く。

最初、あるキャラクターでの演技や表現を見て甚く感動したりして「この演じ手の役者さん良いな」と思い、好感を抱く。そして、その演じ手の方が出ている他の作品などにも触れていくようになる。最初は、触れる世界のすべてが新鮮で、どんな作品であっても、また「推し」がどんな人間であっても、追うことがすごく楽しいと思う(大体1年くらい)。でも段々と、この人の見せてくれる表現の、「こういう部分はピンポイントですごく好きだと思える」けど「こういう役柄の時の声、この時の歌声は刺さらないんだよな…」ということが増えていく。その人が出演しているあるコンテンツを好きでいても、実際、刺さるのはその人が演じているキャラクターじゃなく、別のキャラクターや別のユニット、ということが増えていく(勿論、その人の演じるキャラクターや表現を好きだな、いいな、と思うことはたまにある、ただ、「たまに」というのがすごく問題な気がする)。

「推し」を好きでいることと、コンテンツを純粋に好きでいること、一つの世界に共存することは難しいのでは…?という気さえいつもしてしまう。でも、周りの「同じ人を好き」というオタクの人達は、ちゃんとその人の全てを好きでいる。その人の演じるキャラクターやその人自身にちゃんと深く興味を持てている。好きになって何年たっても、たとえ単推しでも、「推しの良いところ」を初めて恋したときのように新鮮に更新して見つけていけているように見える。それがとても眩しく、すごく思える。

比べるものではない、ということはわかっている。でも、私は、そのことが、とてもしんどい。みんなには見えている世界が、自分には見える感性が、もう無い、ということがとてもしんどい。1人の人間をずっと好きでいつづけられない自分を、それでもしがみついてしまう自分を、嫌いにすらなりそうになる。対する相手は表現者なのだから、見せられる表現のぶぶんをちゃんと好きでいたい。リスペクトしていたい。何人かの人間を今まで好きになり、でも、そうやって勝手にしんどくなったりして、勝手に自爆していつのまにかはなれてしまった。今もそんな時限爆弾を抱えている。


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