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読書と生活と絵画  『この世の喜びよ』/井戸川射子


こんにちは、みなさんいかがお過ごしですか?
私は毎日やりたいことをほんの少しずつ進めて、概ね元気に過ごしています。

先日、第168回芥川賞受賞作品
井戸川射子さんの『この世の喜びよ』
を読みました。
素敵な作品で、たくさん思うところがありました。
そのことについてお話しさせてください。



◆あらすじ

まずはじめに
作品の内容について、簡単にご紹介させてください
講談社BOOK倶楽部ページの引用をどうぞ

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思い出すことは、世界に出会い直すこと。
静かな感動を呼ぶ傑作小説集。

娘たちが幼い頃、よく一緒に過ごした近所のショッピングセンター。その喪服売り場で働く「あなた」は、フードコートの常連の少女と知り合う。言葉にならない感情を呼びさましていく芥川賞受賞作

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◆感想

内容としては何か特別で劇的なことが起きるわけではありませんが、読み終えてから、じんわりと心が動き続けます。今もなお、そうです。読む自分の状況や年齢、経験値で響く箇所が違う気がするので、これからも大切に読んでいきたいと思いました。

そしては、この作品の主人公「あなた」が自分自身であると確信を持ちながら読み進めていました。職業や年齢や家族構成も違うのに不思議な感覚です。

あなた」は少女との会話を通して、自分自身の記憶を辿って、自分が歩んだ世界と出会い直していきます。無意識のうちにも自身の記憶達を辿っているました。

人生の大半を占めている時間は、ドラマチックでも刺激的でもないですよね。コンビニでお夕飯済ませたり、お風呂を面倒だと思ったりするような、そんな生活の生温かい空気が作品全体で美しく表現されています。

ワッと泣きたくなるような辛いことも、過去になって振り返る頃には、その棘がもう痛く無くなって、良い思い出として捉えられることもありますよね。作品内のそんな記憶の曖昧な穏やかさが、とても心地よく、自分が歩んできた道と今を肯定してくれました。




◆呼び起こされる感情と記憶

◇今の幸せに気がつく

 作品の中には、育児に関する描写が多く登場します。中でも、昔の小さかった子どもたちの姿を追憶していく際の表現がたまらなく好きでした。

▶︎「うどんでも、何でもあの子たちに分け与えながら食べるから、自分がどのくらい食べられるかもわすれちゃうんだよね。」(p.24)

▶︎「娘たちが大きくなる前、驚くほど近くにある時には、…」(p.32)

▶︎「あなたは寝転ぶ時には腕と脚を少し広げ、左右対称にした姿勢でないと気持ち悪いのに、娘たちがそうはさせてくれなかった。朝起きれば生臭い息を吐きながら、笑って転がり合っていた、咳き込む体を抱けばバネの力を感じた。」(p.32-33)

この箇所が響いたのは、おそらく私自身の子どもも大きくなる前の1歳8ヶ月だからです。毎日、笑いながら目を輝かせて世界のあらゆるものと初めましてをしています。そして毎秒出来ることを増やしています。ついつい日々のめまぐるしさで忘れてしまいますが、この素晴らしい瞬間を一番近くで見れていることの幸せを、改めて認識できました。




◇苦しいこともある

 幸せをたくさんくれる子どもの存在ですが、やはり人間を育てるのには大変な労力がいります。私の性格上、肉体的な苦労(保育園の送り迎え、お風呂、通院...etc.)は気合いを入れればいくらでも努力できますが、精神面なところは勢いで乗り切ることができず、日々同じことをぐるぐる考え続けています。

作品の主人公「あなた」のように思い出にできる日を願って今のことを少し記させてください。

 子どもが1歳半をちょうど超えたあたりから、毎日ほんの少しずつ自分の心が傷ついていることに気がつきました。今我が子は、毎日できることが増えていますが、同時にやって欲しくないと感じる場面も増えています。

道路に飛び出してしまうとか、知らない人を触ろうとしてしまうとか、怪我や危険を伴うこと、人に迷惑をかけることは躊躇わず全力で止めています。私の心が痛むの問題は"しつけ"の範囲を教える時に起こります。

・ご飯のとき椅子から立ち上がる
・お風呂に入りたがらない
・おむつやお着替えを嫌がる
・お野菜を吐き出す
など

そんな時私は咄嗟にに眉を吊り上げて
「○○ちゃん!○○してください!」
とこちらの要求を押し付けてしまいます。
しかし、そのあとすぐにこれらは全部こちらの都合によるもので、正しいことだとは言いきれないことに気がつくのです。

自分の考えを一方的に押し付けることはしないと、幼少期から誓っていましが。咄嗟に出てきた言葉達の身勝手さにショックを受けます。そして、言葉の上に思い通りにならない苛立ちの感情も乗せていることにゲンナリするのです。

いつも理性的であることを誇っていたけれど、こうして余裕がなくなると出てきてしまうのであれば、本来の私はこうなのかもしれません。

私にとって、"正しさ"の所在は幼少期からの課題でした。学生時代忘れ物が多かったけれど別段困ってはいなかったし、友達と同じ服装もつまらないのでとびきり派手でカラフルなものを好んでいました。髪の毛が突然いらなくなって坊主やモヒカンにしたこともありました。

「なぜ好きな事をすると否定的な言葉を貰うのだろう、法律を犯してるわけでもないのに」

と常に考えながら様々な選択をしていました。そんなみんなの正解に納得できない私が集団に入ると変に目立つので、それを面白く思わない人達からの同調圧力に幾度となく苦しめられました。

これまでの経験や、子どもに対して注意する事柄について考えると、"普通”(大多数意見?)や"平均"正しいを作ってるように思えます。そうだとしたら私の中には、人を叱れるほどの正しさが入っていないように思えます。




◆穏やかに追憶できる日を願って

子どもを一人の人間として、感受性を尊重しながら生きていきたいと心底願っています。ついつい日々のやるべきことをこなす事に集中していますが、子どもの行動の動機はいつも、意地悪な気持ちが入っていないことを忘れたくありません。

急に走り出してしまうのも
立ち上がってしまうのも
突然気になるものが目の前に現れたからです。

お風呂に入りたならなかったり、
オムツやお着替えを嫌がるのも、
テレビやおもちゃで遊ぶのが面白いから辞めたくないだけで、満足するまで私が待てば良いのです。

野菜は美味しいと思えないのだから
大人の私たちがそうしているように、
嫌いなものは食べなければ良くて、
(工夫は続けます。)

生まれて2年も経っていない人間が、精一杯の力で考えた行動の小さな喜びを、見落とすことなく大切にできますように。今日を思い返して笑って布団に入り、明日を楽しみにしながら眠りにつける生活を守れますように。


Aimi Iwashita

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