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見送られること

東京を離れるまであと3週間です。

韓国に行きたくてビザの結果待ちをしていますが、もし発給されなくても家は引き払って実家に戻ります。

東京に家があったのは1年半。実家からリモート勤務をしていた時もあったので、ちゃんと住んでいたのは1年2ヶ月くらいです。

いままで住んだ街のなかで最も滞在していないし、満喫もできていない街である東京。

それなのに、見送ってくれる方がたくさんいて感情が昂ります。

見送るってくださる方の存在

東京に来る直前からコロナのある世界になり、ひとに会う機会が減ってしまいました。

だから、本来なら見送ってくれるひとはいないはずだった東京。でも、気づけば東京でたくさんの方と知り合い、見送っていただける立場になっていました。

最も大きかったのは、3月から受講を開始したSHElikesというスクールで知り合った方々。入会同期はもちろん、7月からこのスクールで業務委託を開始したことで知り合った方もたくさんいます。

直接会ったことがあってもなくても、もういよいよだねと声をかけてくれることが嬉しいです。

見送るということ

私が7年半勤めた会社は、ひとの入れ替わりが多い会社です。

正社員が少なくて有期雇用のメンバーが多いので、必然的に誰かを見送ることが多くなります。

最初こそ悲しかったけど、1〜2年も経てばそんなことは言ってられなくなって、誰かが去ることに慣れてしまいました。結果私は誰かを見送る時に寂しさや悲しさをあまり感じなくて、薄情だなと思うことがあります。

これは私が去る側でも同じで、私自身がどこかに行くときも、別に見送られなくていいと思っていました。

日本国内にいれば直接会うことはきっとできるし、海外に出てもいまの時代はオンラインで繋がれる。「去る」の境界があいまいな時代です。

だけど少し前に親友に言われた、「ちゃんと見送りたいから、いなくなる時は早めに言ってね」という言葉。この時、私はハッとしました。

見送るとは、去る側だけの問題ではなく、見送る側の問題でもあるということ。

去る側が誰に惜しまれなくてもいいと思っていたとしても、見送る側がちゃんと見送りたい時だってある。そういえば私も、ちゃんと目の前のひとを見送りたくて、こっそり送別会を開いたことがありました。

見送られること

気づけばこの10月は、最後に会いたい方との予定で埋め尽くされています。

毎週末誰かと会う予定が入っていて、それじゃあまたいつか、元気でねと話して別れます。

私がどうしても会いたい方に時間を作ってもらっているイメージでしたが、同じように名残を惜しんでもらえることがとても嬉しいです。

私が大事な誰かを見送りたいと思うように、誰かも私に対してそう思ってくれているかもしれないから、去る時は事前にお知らせすること。

伝えないことが、エゴになることがあるから。あと3週間、いろんな方と名残を惜しんで、東京を去りたいと思います。


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7年半勤めた会社を30歳で辞め、好きな場所に住んで好きな仕事をする人生を作り直すと決めました。サポートいただいたお金は、退職後にお仕事にしているコーチングのスキル向上や、noteを書き続けるための生活に使用します🙇🏻これからも記事を通してみなさんと繋がれたら嬉しいです☺️