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私は、怒鳴るというコミュニケーションを軽蔑する

唐突に話を始めるけど、私は「怒鳴る」という選択が日常にある人のことを軽蔑する。

「怒鳴る」コミュニケーションにおいて、怒鳴られる側の気持ちを私は知っている。

怒鳴る側の気持ちは想像はしても、理解し甘受するなんてことは絶対にしたくない。


感情的になること


大人にもなって、感情を表に出すのは恥ずかしいと思っていた。社会人になってから、その傾向はどんどん強まった。

だけど、1年前からコーチングを学ぶようになって、それは一概にそうではないのだと気づいた。

社会には、感情的な行動を冷たく見る傾向がある。でも、もっと私たちは自分の感情に正直になっていい。

そう思えてからは、自分の感情に気づけるようになって、目の前の世界がどんどん変わっていった。


だけど、感情の出し方には方法があるとも思う。特に、選んではいけない方法がいくつかある。

そのひとつが、「怒鳴る」ということ。

それ以外にも、ひとを「詰める」とか「責める」とか、一方的になって反論を許さない、暴力的なコミュニケーションを私は軽蔑する


怒りの出力


自分の中にわいた「怒り」の分類にある感情を、コントロールのできない人がいる。

私の人生のなかで、これが顕著だったのは3人。元同僚と友人と、悲しいけど父もそのひとり。


だけど、父がそうであるおかげで、「怒鳴る」を他人事ではないと思える。

いまの私は「怒鳴る」ひとをただ軽蔑するのではなくて、何が起きているのだろうと見つめられる。

この類の人たちは、きっと怒りの出力のしかたを知らない。そもそも怒りの因数分解ができない。

そして、「怒鳴る」のはダメだと、他の方法があると言われてこなかったことに、思いを馳せたりする。


「怒鳴る」を軽蔑する


とは言っても、私の考えはこれ。「怒鳴る」を軽蔑する。この立場は譲らない。


怒鳴られた側の心に立つ波を、怒鳴る人は知らない。この波をおさめるまでにどれだけの時間がかかるのか、どれだけのエネルギーが必要か。

あるいは、これはいつまでも傷となって残るのか。

そんなことなんてお構いなしに、ただ怒鳴るコミュニケーションを私は軽蔑する。

「怒鳴られる側に非があった」とかいう主張も受け付けない。断じて認めない。それは、怒鳴ったあなたの主観でしかないと主張する。


これを書いているいま、過去に私を怒鳴ってきた元同僚の顔が浮かんでいる。

それは彼にとっては一瞬の出来事で、もしかするともう覚えていないかもしれない。でも、私には確かに傷となって残っている。

「怒鳴る」コミュニケーションが日常の中にある人は、誰かにトラウマを残す選択肢が日常にあるということ。

これはおかしいと思う。そして、だから私はコミュニケーションをもっと学んで、一番身近な存在である父から伝えていく。

「怒鳴る」からダメージを受ける人を、一人でも多く減らしたいから。私の半径5メートルから、やっていきたいこと。


7年半勤めた会社を30歳で辞め、好きな場所に住んで好きな仕事をする人生を作り直すと決めました。サポートいただいたお金は、退職後にお仕事にしているコーチングのスキル向上や、noteを書き続けるための生活に使用します🙇🏻これからも記事を通してみなさんと繋がれたら嬉しいです☺️