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映画『みんなの学校』、上映会にいってみた

先週、映画『みんなの学校』の上映会へ出かけてみて、感じたことの記録。

どんな映画か?簡単にお伝えすると……
大阪市立大空小学校という、公立小学校の1年を記録したドキュメンタリー映画。

大空小学校は「すべての子供の学習権を保障する学校をつくる」という理念のもと、特別支援の対象とされる子どもも、全員が同じ教室で学ぶ。
みんな (子ども、先生、保護者(サポーターと呼ばれる)、地域の人)でつくる「みんなの学校」。
映画には、その日常の記録〜大人も子どもも、誰もが  失敗しやり直しながら、互いに学び・育ち合う様子〜が残されていた。

詳細は、公式サイトにて。

上映後に、トークタイムもあって、これがまた…、とっても良かった!
(大空小学校   元校長:木村泰子さん、映画企画:迫川緑さん、保護者の方、が参加)


実は4月にも、オンライン講座で  木村泰子さんのお話を聞く機会があり。そこからずっと  「みんなでつくる『みんなの学校』」っていうキーワードを、頭のどこかに置きながら過ごしていたので……

その流れの中での、この上映会。
我ながら、いいタイミングだったなぁと思う。


色んな事が頭に残り、また  心動き、スマホに夢中でメモを残しながら電車に揺られた帰り道。




一番  心に残っているのは、『人権は空気』という言葉。

これは、トークタイムでの話なのだけど。
大空小学校の、全校道徳の時間。ある日のテーマが、「人権とは?」だったそう。

大空小学校の全校道徳とは?
正解のない物事について、話す時間。1〜6年生ミックスの小グループに分かれ (大人はおとなのグループで) 事前情報もなし、自分たちの頭で考え、自分たちの言葉で話す時間なのだとか。

<もっと、詳しく知りたい方はこちら>
Ed Café(エドカフェ)第3回 木村泰子先生と語る「きょういく」:テーマ「学年をこえた子どもたちをつなぐ」



それで、話し終えた子どもたち、半分以上のグループから挙がってきた言葉が、『人権は空気』だったんだそうで……


「人権とは?」の問いに『人権は空気』って!
想像もしなかった、そのひとつの答えに、ものすごく痺れて、圧倒された私。
瞬時に意味は理解できなくて、なのに  何故だか、ものすごく納得感があった。

通っていた子が、大空小学校は「ふつう」 と 話すのだそう。
その、「ふつう」って何か聞くと「息ができること」なんだって。


ドキッとした。
息ができる。空気がある。
トラブルがあっても、ネガティブな自分を曝け出しても、大丈夫。いつでも、誰でもやり直しができる。
そんな安心安全の空気が学校にあって、息ができる。
子どもも、大人も、みんな。

そういう事なんだろうなぁって、それは映画から伝わってきていたから。

わが子の通う  地域の学校とは、空気が違う。
一方で、大空小学校は「ふつう」って話す子どもがいる。

大空小学校、すごいなぁ。私は自分の家庭、地域で、何ができるんだろう?って知りたくて、映画を見に来たんだけど。
別にすごくないよ!?これ「ふつう」でしょ?あなたの学校は「ふつう」じゃないの?どうして?って……子どもたちに、言われてしまいそうな気がした。


「ふつう」ってことを、履き違えてしまっているようなこと
捉え直さなくちゃならないようなこと、が  きっと様々ある。

そういう、一人ひとりの、一つひとつが空気となって、学校や地域や社会を作っている。周りが変わらない、と嘆くのではなくて、自分自身  まだまだ学ぶことがある。

それを続けた先に、変化が起こっていくんじゃないか?まずは自分から、少しずつ周りの人へと。
そんな風に感じた時間だった。


「学ぶ」って、どういうことか?も、感じた事をメモしておく
・自分と違う、他者(ひと)と話すこと。
・相手の立場になって考えること。
・気づいて、自分を更新し続けること。
・間違いだとわかったら、やりなおすこと。
・傷つけてしまった人がいたら、謝ること。
・湧いてきた違和感に、反応すること。
・それを、誰かと共有して、一緒に考えること。

帰宅中のメモより


「発達障害」とその子を括ること、「人権侵害です」と、キッパリ話される木村泰子さん。

発達障害は、ただ、その子の個性の一部なだけ。

( わが子の事は「不登校」と括りがち、括られがちだけど、それも同じくだなぁと思いながら聞いた )


「ふつう」というのは、その場の、その時代を占めているその他大勢の人が出す、「空気」なわけです。正しいか正しくないかではなくて、
数が多いから「空気」をつくっている
というだけ。

ふつうの子なんて、どこにもいない |木村泰子(著)

帰ってから、以前読んだ本を  また開くと、目に留まった一節。
『人権は空気』って、やっぱり  ものすごく的を得た表現だ。




『人権は空気』の話だけで、こんなに書いてしまった。
noteを書いていると、いつも思い知る。自分の思考の散らかりっぷりを……苦笑



他にも書きたかったトピックはあるけれど、それらは軽く残す程度に……


  • 子どもは通訳者

<メモ>

子どもは、相手をよく見て聞いて、見えないものからもわかろうとしている。
例え、「アー」のみの発話でも、同じ教室で過ごすうちに、相手の特性を学習していく。
大人は、子どもから学ぶことが沢山ある。わからない時には、周りの子にも助けてもらって通訳してもらう。「わからないから、お願い、教えて」って。奢りは捨てて。そんな姿勢で在れたらと思った。

  • 子どもたちの分断を生んでいるのは、大人

<メモ>

「子どものために」と、発達障害のある・なし、で分ける、など分断を生んでいるのは大人。
その子ごとに、必要な配慮を互いに学び合う力が子どもにはある。それを繋いでいくのが、本来大人のすること?

みんな違って当たり前、という大前提は生まれながらに、みんなが持っているはず。
それを、歪めてしまうのは大人(それこそ、空気なのかも?)。その大人もまた、過去に歪められてきての今がある。
気づいたら、きっとその時が、学び直しやり直しの時。

  • 教室内のしんどさについて (同質性が高い・同調圧力がある)「同年齢の集まりだから?」思っていたけれど……

<メモ>

・同年齢の集まり → 同質性が高い?(同じことを求められる)

比較の目がうまれる『しんどい』

・異年齢の集まり → 同質性が低い?(違うことが前提)
比較があまりされない『気が楽』

と、思っていたけど……違うのかも???


同年齢・異年齢はたぶん関係ない、ほんとうは。
年齢ごとに決められた目標に向け、同じように育つことが求められがち。それが、しんどいんだ!

年齢で括らず『その子に合った育ち』を、見てもらえること。年齢は関係なく、1人ひとりの違いを受けとめ合えること。(むしろ、違って当たり前という空気感)

それがあれば、きっと同年齢の集団にも、もっといろんな個性が表面化する → しんどさはなくなっていくのでは?


※フリースクールに体験に行ったとき、娘が「ここは、みんなそれぞれの事をしているのがいい」と言った。異年齢集団であることが、大きいか?と思ってたけど、それだけではなかったのかもしれない…と気づく

  • 一瞬一瞬は本物

<メモ>

子どもが自分で「こうしよう!」とやり直しを決める。でも次の瞬間、簡単に破られたりする。
そうすると大人は、子どもの決意を聞くたび「そんな上手くいくかなぁ〜」と、疑心暗鬼になったりする。
けど、その決めた瞬間の、その気持ちは本物。

毎瞬、毎回、子どものその時を、信じて受け止められているか?
万が一決意が破られた時にも、そのときの気持ちは本物だったと信じられているか?
(自分への問いかけ)





文中で、引用した本を載せておきます。


とにかく、今は書き切る、言葉にする場としているこのnoteです。

書きながら、情報過多だなぁ……と、これ読むのは大変だろうなぁと、思ってはいるのです。
このごろ特に長くなってしまう。涙

よく最後まで辿りついてくださいました。
読んでくださって、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました!

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