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タンポポと自分

 目的を決める。それに向かって一直線に進んでいく。

 凄く簡単に言えちゃうこと。たった一行で言えちゃうでも、実行は難しい。

 自分もそうだと思っていた。何事にも「これだ!」っていうのを見つけ出して、それに一直線に向かっていくのがいいんだと思っていた。飛行機雲みたいなのが良いんだとばかり思っていた。それが、最終的な点まで突き詰めた時の”像”だと思っていた。

 でも、ほかの選択肢があるかもしれない。

 道端のタンポポは花が咲き花がしおれると、すぐに種を付けあのふわふわな綿毛をつけない。一旦枯れちゃったのかと勘違いするぐらいにぐったりしているときがある。子供心に怠け者だと思った。だらけちゃってると思っていた。

 でも、小学校の2年生の頃だっただろうか国語の教科書の教材が今も心に残っている。

 タンポポを扱かったその教材は、タンポポが一回萎れるのはだらけているんじゃ無くて、実は種を作るためのエネルギーをためておくためだと知った。

だらけてなかったんだ

 自分は今noteを書いている。(書いていたから今記事があるから自明ですね、はい。)これはすっごい無駄なこと。いやいやそんなことないって言いたいけれども、この瞬間の生産性の話をすれば、自分は何も生み出していない。少しでも誰かの心の蟠りを取り除きたいだなんていう大義名分引き下げて、堂々とサボっているだけ。

 でも、それもこれも何もかもタンポポは肯定しているって勝手な僕は思う。だって、そういうことの全部はあの萎れているときっても捉えられない?って思える。ついでに人間だけの特権か、種の違いかで咲き誇る前にもグデグデしてていいんじゃないか。

 サボる理由じゃない。生きている理由だ。

 ちっさな問題を、おっきく論って他人を巻いているんじゃない。

 ただ自分は、タンポポになりたいだけ。誰か自分を見つけた人が、新たな場所に運んでくれるまで待つてゐたい。

 待つことは意外と得意なのだ

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