情報と踊るより 音楽と踊ろう
私のこの肉体を乱舞させうるのは、洗練された音楽のみだ。
私が何か調べ物をしていてもっともらしい情報に出会って、それが”科学的根拠”や”エビデンス”という言葉で裏付けされていた時、それをも疑う姿勢を失ってしまっては、最初にあったはずの「本当にそうなのか」という気持ちを踏みにじることになる。
まず、科学において人類が思考し常に発展する以上、絶対に正しい情報というものは存在しない。
例えば、その昔地球は動いていないとみんなが信じていたが、それは事実ではなかった。
また、地球を含めた宇宙についてあれほど見事に説明していたニュートン力学は、アインシュタインの相対性理論によって事実ではなくなってしまった。
私達がどんなに感銘を受け、これは真実であると心から感じても、いつの日か覆されるかもしれないのだ。
そしてエビデンスにはレベルがある。
1つの論文があったからといって、そうであると確信していいわけではないのだ。
英語になるが下記のリンクを参照いただきたい。
エビデンスだからと無条件に信じるのではなく、それはあくまでも統計学的傾向であり、時には小さな団体の平均であったり、誰かの思惑であったり、ただの仮説であったりする。
情報に踊らされない為に頭においておくといいことのうち最もよく使える一つは、『すぐに因果関係だと決めつけない』ということである。
これは実際にあった有名な話で、少し前まで少量の飲酒という習慣は健康にいいと信じられていた。
しかしこれは少量の飲酒を継続的にできる人は比較的裕福な場合が多く、健康管理にもお金をかけられるため、結果として健康でいられたという見解が最近は多くなっている。
飲酒によって健康になったわけではなかったのだ。
また、例えばコーヒーの香りをかぐとヒトは優しくなるという研究結果があったと仮定する。
ここでコーヒーに含まれている何かの香り成分がヒトの鼻を通り脳に到達し、何かの作用が働き、ヒトが他のヒトに対して優しくなるのだと決めつける、のは早い。
そのヒトが過去にコーヒーを飲んだ時、そのコーヒーに含まれている何かしらの成分によってリラックスしていて心に余裕を感じ、結果として他者へ優しくなった経験が積み重なり、コーヒーの香りをかぐだけでヒトに優しくなったという可能性もあるのだ。
パブロフの犬のようなパターンも、なくはない。
他にもこういう研究結果があったとする。
XXXという食材を多く食べている、YYYの国に住む人は心臓病の割合が低いというデータだ。
ここで、その食材が心臓にいいと結論づけるのは早い。
むしろその食材が何か別の重大な疾患に繋がっていて、それが死因ランキングの上位に入ってくるため、相対的に心臓病が下位においやられただけということもありえるのだ。
こういう皮肉のような結果もまた、なくはないであろう。
ヒトの死因はたいてい一つなので、他の疾患になれば心臓病で死に至る確率は低くなるだろう。
さて、数年前に『生き方としての健康科学』という書籍の中で、”健康は自己実現である”という言葉を見つけた時に私は深く感銘を受けた。
よりよい状態になるために成長することは私の生きる衝動である。
健康的であるかどうかは私のもっとも大切にしている価値観の一つだ。
しかし、本当に信頼できる見解が示されたデータを発見した際に、極端に影響されてしまう前に、それが実際の個人の肉体や生活にどのくらいの影響を及ぼすのか考慮しても良いと思うのだ。
なぜなら私は、現実的なもの、この目の前にある実際の生活も重要視しているからだ。
いかにもな健康情報に飛びついて、すぐに行動を持って反応してしまう前に、自分はどの程度影響されようか選んでみよう、ということである。
例えば、こういう行為がこの病気のリスクを下げますという研究結果をもとに行動を変えていくことは素晴らしいことだと思う。
しかしその行為は、1個体のヒトが死に至る時の、何にどのくらい影響するのかということを長い目で見て判断する余裕もあっていいと思う。
反対に何か特定の対象や行為を徹底的に避けることも私は必ずしも賢い選択とは言えないと考えている。
ヒトは生きている以上、常に何かしらのリスクと付き合っている。
呼吸すること、目を使って何かをすること、足を使って歩いたり走ったりすること、食べ物を口に入れて歯を使って噛むこと、何かを体内に入れること、処方された薬物を摂取すること、家の外に出ること、人と関わって感情的が影響されるということ、書籍を開いて知らなかったことを知るということ。
考え方次第で、ほとんど何かのリスクになりうる。
しかしヒトはそういったリスクとうまく付き合っている。
睡眠で体を回復し、歯磨きをし、用法用量は守って、赤信号では止まって、雨なら傘を持ち、貴重品や見えにくいところで持ち、苦手な人とは距離を保ち、ストレスコントロール方法を学ぶ。
リスクもあるが、日々それと上手に向き合い生きているのである。
端的に申すと、何か壮大な情報のほんの片隅だけに過剰に反応し、自分の生活に窮屈な枠組みを作ってしまうのは、もったいないことだと感じるのである。
目の前に現れた情報を常に疑う姿勢、その情報のある分野に関する幅広い見識、独立したように見える情報と情報を上手く繋げようとする癖、私はそういったものを武器としてこの情報化社会の中で生きていきたいと思う。
情報に踊らされたくはない。
踊るのは音楽を聴いている時だけで十分と思っているのだが。
※この記事は2020/09/03に公開した記事に一部修正を加えたものです。
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