知は救いうるか by AIGETSU
知が救わずともの記事。
思うことに関する記事。
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哲学に関する記事。
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私達は概念から具現化された事象でしかないからこそ、私達のたどる旅路は限りなく自由であり、信念や目的は人の数だけあり、美しさの定義は各々の歩みの結晶であるし、恐怖に打ち勝ち深い探求へと向かう姿は可愛らしいのであろう。 知が救わずとも はじめに 哲学 感情とは I 芸術 私がコピー品なら、芸術とは何だろうか I 思うこと 美しさは年齢に依存しない 情報と踊るより 音楽と踊ろう 何でもできる人
私が飲んでいるのはコーヒー[Coffee]ではない、コーヒーの味がつけられた水[Coffee Flavored Water]なのではないかとよく思うのである。 人は何をコーヒーと呼んでいるのか。 コーヒーの定義とは。 コーヒーとはなんだろう、水とはなんだろう。 コーヒーと水は何が違うのだろう。 飲むとはどういうことだろう。 飲んだら体の中で何が起こるのだろう。 数秒後にはそれは私の一部になってしまい、コーヒーではなくなるのか。 なぜ飲まなければならないのだろう。 私はそ
先日、ふと知人がこう言った。 「なぜ何でもできる人は何でもできるのだろう」 私の答えの軸は以下の3つだ。 I. 「できる or できない」ではなく「やる or やらない」 II. 脳は一つだから III. 学問や技術に境目などない 一つずつお話していきたい。 I. 「できる or できない」ではなく「やる or やらない」 これは、自分に制限を作らないということだ。 まだやり始めていないんだから、何も分からないのである。 あれこれ考えず、やってしまえばいいのだ。 ヒ
私のこの肉体を乱舞させうるのは、洗練された音楽のみだ。 私が何か調べ物をしていてもっともらしい情報に出会って、それが”科学的根拠”や”エビデンス”という言葉で裏付けされていた時、それをも疑う姿勢を失ってしまっては、最初にあったはずの「本当にそうなのか」という気持ちを踏みにじることになる。 まず、科学において人類が思考し常に発展する以上、絶対に正しい情報というものは存在しない。 例えば、その昔地球は動いていないとみんなが信じていたが、それは事実ではなかった。 また、地球を
私は何をもって芸術と感じるのだろう。 人は一体何のために芸術作品を作るのだろう。 芸術からメッセージを抜いたら何が残るのだろう。 ここで私がいうメッセージとは、特定の誰かに伝えたい想いがあるということではなくて、もちろんそういった場合もあるのだが、私がここで表したかったのはその意味ではなく、その芸術作品がどうしてそのような結果になったのかという理由や過程が、その人の中にしっかりとあるか、ということである。 芸術が創造されたり発信されたりする時に、それを形作った軸が他者では
思い返してみると、私は過去のほぼすべての瞬間において、次の瞬間に自分が幸福になるか不幸になるかを選ぶことができたように思える。 極端に言えば、自分がとても不幸だと思っていた時期でさえ、その不幸の理由は私自信が絶えず「よし、次の瞬間も不幸でいよう」と選択し続けていたことにあるように思えるのだ。 私は今、次の瞬間に自分を幸福な人間だと思うか、不幸な人間だと思うか、自由に選択することができると思う。 私はどうありたいのか、あるいは自分をどのような人間だと思うかにおいて自由に選択
美しさを語る時に、そこに年齢は要らないと思うのである。 私は頻繁に、日常生活の中で時間という概念から解き放たれたい欲求にかられる。 それが邪魔だと感じるからだ。 何かをする時、時間という概念が邪魔だなと感じることよくある。 『もうXX才だからこうしよう』 『XX才なのにこうあるのはおかしい/すごい』 『これをするには時間がかかるからやめておこう』 時間というものはおそらく、現在多くの人が考えている形とは少し違っていて、そこには私にとって意味はない。 少なくとも時間のサイ