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エゴは消失ではなく拡大させることで幸福獲得に貢献する II 〜拡大を経た自己認識から提供される客観性を元に、日々を演出する自由と責任感を獲得する〜


はじめに: 拡大して終わりではない

エゴを自分の肉体に閉じ込めることなく、見える世界全体に見出すことで、自分がいる環境をまるごと受け入れて肯定することができ、安定した幸福に繋がる、という仮説を同タイトル記事の第一弾で展開した。

自分らしさを、肉体的な自分以外にも見い出すという考え方の提案だ。

自分の目の前に広がる環境もエゴの選択により組み立てられたものであると考えれば、”自分”という範囲は、自分が見える限りの世界に拡大するという認識の変化である。

その結果、自分の生活に対する視点が安定するのではないかという私の希望を文字にした記事だ。

しかし物語はそこで終わりではない。

私はこの哲学的な探求を始めてしまったので、せっかくだから終わりたくないのだ。
拡大した視点を手に入れても、焦点は変わらず”私の世界”であるからだ。

今回は、その視点から得られるものを掘り下げたい。

私の小ささ、世界の広さ

見える限りの世界が自分の選択で集められたものであると自覚する。

今まで私が思っていた私とは、世界の中心なんぞではなく、世界の一部であったと気付かせ、私を謙虚にした。
私は世界を構成するただの一人の人間であり、私が何をしたって、大したことにはならないのだ。
ちっぽけで可愛らしい存在なのだ。

と同時に、自由な感覚も覚えた。

自分が世界の中心だと思っていた時、その中心はエゴあり、中心がなくなると世界が崩れるのではないかと、心理の根底には常に恐怖や不安があった。

しかし、実は私は、親に守られた赤子のように、自由に生きていい存在なのだ。
エゴを世界の中心に採用していた頃の私は、窮屈な場所に立つことを強いられている気分で毎日を過ごしていたが、本当は見える限りの世界を思う存分飛び回って体験していいのだ。

もし私に何があったって、私を含んでいる広い世界は変わらずあり続けるのだ。

私達はドラマを生きている

演技をしているときの俳優の脳は、メタ認知と呼ばれる状態になっているという。

少々想像していただきたい。

息を引き取ったばかりの3歳の娘を腕に抱き、雪の中、教会の扉の前で咳き込んだ。
口を抑えた布から、自身が結核の末期患者であることを悟る、28歳の女性。

紺色の布一枚は、服と呼ぶにはあまりにも質素で、手足の先にはもう感覚がない。
限界まで伸びた爪と、耐えきれず折れてしまった不揃いな爪で、娘の頬を撫でる。

せめて娘だけでも暖かい場所で眠ってほしいと願い、通行人の顔を見るが、人間の声とはいつでも出せるものではないのだと知るーーー。

この時の俳優の脳は、究極なまでに自分を客観視しているという。

体は震えるし、涙は出るし、声もかすれるのだが、意識はその”28歳の女性”に宿っているわけではなく、”28歳の女性”を見ている”私”であるのだ。

この”こういう私”をみる”私”になると、小さい方の”私”がいかに鮮やかで豊かなドラマに中に生きているか分かるし、時には嫉妬さえ生まれないだろうか。

そう考えると、私は今一度、深く思うのだ。
あぁ、私はこの鮮やかで豊かな世界において自由なのだ。
なんと恵まれているのだろう、と。

私がどんなドラマを展開しようと、他人には他人事である。
世界にたいした影響なんて与えない。
私が世界を終わらせることなんて出来ない。
世界はいつでも”在って”くれる。

広い世界に産み落とされた、ちっぽけな私が暗中模索・紆余曲折しながら、自分だけのドラマを生きる様子は、なんとも愛くるしい。

エゴを受け入れ拡大させた視点から、自分を再認識し、そこから生まれる様々なドラマを楽しむのだ。

ドラマの演出家として

28歳の女性の話だけでは観客は飽きてしまう。

雪は2日前から降り続いているようだ。
28歳の女性の、右斜め前で雪だるまを作っているデート中のカップルは、昨晩彼女の妊娠が発覚したらしい。
雪の中で体が冷えたり、滑って転んだらと不安に思う彼女を、気分転換だからと彼氏がなんとか説得して実現したデートであるらしい。

また、28歳の女性が声をかけようと思った通行人は、地元のパン屋の主人。
実は彼女を助けようかとほんの少し思ったが、自宅にて煮込み料理をしている最中だったため、彼女を助けて数時間手が離せなくなると、自分の家が心配になると思い、結局手を差し伸べることが出来なかった。

先週末に帰省した時に、遊んであげた姉の娘を思い出し、今度彼女にケーキを作ってあげようと心に決めたのであった。

この、雪ふる日の悲劇。
本質は“28歳の女性”である。
妊娠にとまどうカップルや、罪悪感を覚えたパン屋の主人は、付属した小さなドラマに過ぎない。
しかしドラマ全体が完成する上では必要不可欠である。
“楽しむ”ために必要不可欠である。

私はこういうドラマの”付属パーツ”、違う言い方では、この世界の”偶有性”を抱擁したい。

私の世界に、味や色、匂いを付けてくれる大切な部分である。
"部分"である。
世界の一部である。
消すことは出来ない。

本質に寄り添うように、常に生まれてきてくれる。
そして消えていく。

カップルやパン屋の主人が彼女の視界に現れたことは、28歳の女性が想像したことじゃない。
彼らがどんな事情を抱えているのかも、想像できないはずだ。

しかし、28歳の女性と同じ街の住人であり、どこかで繋がっており、深いレベルではお互いの生活を支えている。

実はこの28歳の女性、学生時代に自分で作ったと嘘を付き、買ったパンを好きな男の子にあげたのだが、とっても不味くて嫌われてしまったのだ。
このパン屋の主人の失敗作だったかもしれない。

このドラマを見ている観客はこうした”付属パーツ”や、それぞれの繋がり、あるいは繋がらない快感を総じて楽しむのだ。

私達の日々の生活の中にも、こういう偶有性というのはそこら中にある。
自分のいちばん大切な目的や、生活の軸とは直接関係のない(ように見える)出来事や人、場所。
そういうものも含めて、自分の作る”私の人生”というドラマを楽しむと、目の前の出来事に振り回されずに済む。

自分の中の演出家に思う存分、才能を発揮してもらおう。

思い出作り

自分の人生の目的・生活の軸、そしてその中(や外)で生まれる偶有性を楽しむ。

私はその時「あぁ、私はなんて鮮やかな思い出を作れているんだ」と、感謝の気持ちでいっぱいになる。

過去の出来事は、それが楽しいものであっても苦しいものであっても、今となってみればクスッと笑える可愛い思い出である。
自分はドラマの中で生きていると考えると、現在に対してもこの「クスッ」が生まれる。

せっかく”こういう私”として生活しているのだから、時にはのめり込んで咳き込むまで笑ってみたり、声をつまらせ涙を流したりするのもいいかもしれない。

どちらにしろ、私が概念に還元される時には、全てに「クスッ」変わるのだから。

私には生きる権利がある

最近、とても大切な人に生きる意味について聞いた。
生きる意味がわからなくなって、藁にもすがる思いで聞いた。

『そんなこと考えるのは、弱い人間のすること』とキッパリ言われた。

『目の前にあることをただやってればいいのだ』
『ただ目の前にある仕事や食事、趣味、様々な感情を経験するだけで実はとても価値のあることをしているのだ』と。

『生まれただけで生きる権利がある』とも言われた。

彼女は痛みに負けずに生きている人だ。
その長い痛みの中でたどり着いた答えなのだと思うが、私はこの言葉と共に今後は強くなれる気がする。
胸に刻みたい言葉だ。

私が日常で出会う、本質や偶有性、この世界の全ては、私の思い出作りを手伝ってくれているのだ。

この広く、鮮やかで、豊かな世界の一部として存在している嬉しさ、ありがたさに気付かせてくれた。

”在る”理由を見つける必要はない。
どこか別の場所に行く必要もない。
ここにいる必要を作る必要さえもない。

私というエゴの生まれたこの場所で、私という鮮やかなドラマを、思い出作りとして楽しむ決意をさせてくれた。

彼女の言葉は私を救った。
彼女の知は私を救った。

彼女にはもちろん、知を求めた自分にも感謝したい。

エゴな時、そうじゃない時

エゴを認めるとは、決してワガママに生きるということではない。
自分がどういう人間か、エゴを含めて理解し、自分という存在に責任を持つということだ。

自己責任で生きるということである。
自分は責任を持つにふさわしいほどに成長したと、自分を敬う気持ちである。

自分を理解しようと立ち向かう強さである。
悲しさや苦しさ、焦りを味わう強さである。
自分の人生から逃げない強さである。

客観性をもつと、自分が広い世界の一部であると認識し、自分が小さく思える。
自然と謙虚になったり、責任感が出たりするはずだ。
自分以外の他者も、自分と同じ様に心を持ったかけがえのない大切な存在だと知るからだ。

客観的な視点は、責任感、自由、そして他者との健康的な共存方法を提供してくれるはずだ。

大切なのは、他者と自分とのバランスを取るということだ。
つまり、エゴに基づいた視点と、そこから離れた視点とのバランスを取るということだ。

このバランスに関する勉強は延々と続く。
生きている限り続く。
エゴがここに居てくれる限り、続いてくれる。

おわりに: 生きるだけで自己実現

生まれた以上は、私達は生きる権利を獲得する。
視野を広く持ち、冷静になれば自由な権利も獲得する。

“獲得する”という表現の理由は、権利とは持ち続けるために努力をし続けなければならないということにある。

生きているだけで色々ある。
楽しさも、苦しみも生まれる。

その中でも私達は”生きる”という権利を行使し続けているのだ。

生きているだけで”私の人生”というドラマは絶えず生まれ続けている。

生きているだけで、私達は自己実現の真っ最中であるのだ。

なんと素晴らしいことだろう。

こうつぶやけば、多少はエゴが安定した幸福に貢献していると実感できないだろうか。


※こちらの記事は、同タイトル記事の第一弾に頂いたコメントに刺激を受けて展開されました。
執筆のアイディアのご提供に対し、この場を借りて心より感謝を申し上げます。

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