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美しさは年齢に依存しない

美しさを語る時に、そこに年齢は要らないと思うのである。



私は頻繁に、日常生活の中で時間という概念から解き放たれたい欲求にかられる。
それが邪魔だと感じるからだ。
何かをする時、時間という概念が邪魔だなと感じることよくある。

『もうXX才だからこうしよう』
『XX才なのにこうあるのはおかしい/すごい』
『これをするには時間がかかるからやめておこう』



時間というものはおそらく、現在多くの人が考えている形とは少し違っていて、そこには私にとって意味はない。
少なくとも時間のサイズや年齢と言われているものを気にする必要がないと感じる。
特に日本における”女性”と”年齢”という言葉の間にあるもの、エイジズムとでも呼ぼうか、それに強く抵抗したい。



また私は以下にも当てはまらない。
『年齢を重ねることに抵抗する』
『年齢を感じさせない外見を保つ』
『あるいは年齢にふさわしく老いる』
『年齢を受け入れる』
これらの言葉に秘められている価値観は、私がもっているそれとは異なる。

私は日焼けが好きなのだが、それを聞いた多くの人は将来シミになるよなどと返答してくれる。
あるいは、まるで私も白い肌になりたいという前提があるかのように、肌黒くなちゃいますよと返される場合もある。

私達は日々何かしらのリスクと戦っていて、紫外線とも付き合っていけるはずなのだ。付き合ってきたはずだ。
私は日光を肌に感じている時の快感やいい影響を、個人的にかなり大きいものとして捉えているし、むしろシミシワだらけのおばあちゃんになりたいとすら思う。
生きた勲章を顔に刻んでいるようでかっこいいのだ。



改めて、私は年齢と美しさを切り離して考えたいと思う。
これらふたつは依存しない、独立した言葉であると思うのだ。
本来、美しさとはその人の年齢だとか呼ばれている地球在住歴とは全く関係がないと思うからだ。

立ち振舞い、気配り、姿勢、言葉遣い、表情、健康状態など、年齢とは比べ物にならないくらい唯一無二のその人らしさを表すことができる強力な要素を私達は持っている。
いかなる要素も上下などは存在せず、ただその人らしいかという基準があるだけだ。
これらを探求することによって、私達は見た目において自分の世界観や信念を表現し、自然な自信が周囲に美しいと認識させるに過ぎない。



今一度申し上げる。
美しさを語る時に、そこに年齢は要らない。


※この記事は2020/09/03に公開した記事に一部修正を加えたものです。


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