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私がコピー品なら、芸術とは何だろうか I

私は何をもって芸術と感じるのだろう。
人は一体何のために芸術作品を作るのだろう。
芸術からメッセージを抜いたら何が残るのだろう。

ここで私がいうメッセージとは、特定の誰かに伝えたい想いがあるということではなくて、もちろんそういった場合もあるのだが、私がここで表したかったのはその意味ではなく、その芸術作品がどうしてそのような結果になったのかという理由や過程が、その人の中にしっかりとあるか、ということである。



芸術が創造されたり発信されたりする時に、それを形作った軸が他者ではなくて作者自身の中にあると、芸術作品のもつ力はより強いものになると私は考えている。

そこにあるものを芸術たらしめるものが、本人から生まれているといいなと思うのである。



しかし、人間はまったく無な状態から何か新しいものを作ることは、ほとんどできないのだとも思うのだ。

いくら本人が新しいものを作ったと思っていても、それは過去に見聞きした複数の情報を分解して組み合わせたものに過ぎないのである。

過去に受け取り脳内に保存しておいた情報を、元の形が分からないくらいにまで細かく切り刻み、それらを無作為もしくは意図的に組み合わせただけの加工品なのである。



私の脳は情報の加工場でしかないのだろうか。
私はユニークな存在にはなりえないのだろうか。


こういった考えがよぎることがある。
私は今のところ、祖先と環境のコピー品でしかない。

実はオリジナルだと思いこんでいる”私という存在”、”意識”とは私の脳が作り出した幻想なのではないか。

私という存在がもしもコピー品なら、芸術とはなんだろうか。
私は何のために、芸術と向き合っているのだろうか。
私の中にある芸術への情熱は、なぜ湧いてくるのだろうか。



私はこう考えている。
芸術作品と呼ばれているものを自分も作りたいと思う衝動は、つまり芸術のスタートというものは、自分がどこか欠けていると認識することから始まっていることが多いと思う。

満たされていて、何も求めず、変化も求めなければ、何かを創造するエネルギーは湧いてこないと思うのだ。

理想とするものがたとえ漠然でも本人の中にあって、それに近づくことが自分にはできるはずと感じ、それをするためのエネルギーが、創造する力になりうると思う。

あるいは満たされないその部分が、いつまでも空いたままになっていることがどうも不快で、満ちた状態になれるかどうかわからないけど、とりあえず表現をしてみる、ぽっかり空いたその状態への自分なりの解決策として、創造を始めることもあると思う。


こう考えると、人間は欠けていればいるほど面白いことができると思うし、その過程で生み出される様々な情報、学習、作用は、私達が認知できるこの世界の外側にまで届くのではないかとすら思えるのである。

ほとんどの人間がどこか欠けている理由、その欠陥を補いたい衝動、創造するという人間の可能性、なぜそれらが我々に与えられているのか、芸術に触れた時、私はつい考えてしまうのである。


このテーマは連載とする。
※この記事は2020/09/03に公開した記事に一部修正を加えたものです。

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