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思い返してみると、私は過去のほぼすべての瞬間において、次の瞬間に自分が幸福になるか不幸になるかを選ぶことができたように思える。



極端に言えば、自分がとても不幸だと思っていた時期でさえ、その不幸の理由は私自信が絶えず「よし、次の瞬間も不幸でいよう」と選択し続けていたことにあるように思えるのだ。

私は今、次の瞬間に自分を幸福な人間だと思うか、不幸な人間だと思うか、自由に選択することができると思う。
私はどうありたいのか、あるいは自分をどのような人間だと思うかにおいて自由に選択することができるのだ。

つまり、『私』という存在の軸は感情ではなかったと最近気付けたのだ。



常に動く感情というものを人は抱えていて、それが思考、言葉、行動の支配者となった時は、いつもの冷静な自分ではない何かに体の主導権を奪われてしまう。
気付かないとそのループから抜け出せなくなっていく。



感情は私の本体ではないと思いたい。
感情とは行動や思考の副産物あるいは指標に過ぎないという仮説が今私の中にある。
感情は絶えず変わり続けている。とても流動的だ。

嬉しい、気持ちいい、楽しい、そういうことをできるだけ長く感じることを人生の目的として生きてしまっては、人生そのものが不安定になるのではないかと思う。
目的がなくなることはないが、達成率があまりにも不安定で、かつ年齢とともに比例して打率が上がるわけではないからだ


なぜ感情があるのか、私はまだ分からないが、感情を消し去ると私はどうなるのか想像した時、とても怖いと思った。
自分が消えていくようで、寂しくて不安で、誰かにこの気持ちを聞いてほしいと思った。

それがこの文章を書く衝動に変化した。
あまりにも大きなテーマで答えらしい答えも用意できないので、感情に関する記事は連載とする。



※この記事は2020/09/03に公開した記事に一部修正を加えたものです。

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