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私が飲んでいるのはコーヒー[Coffee]ではない、コーヒーの味がつけられた水[Coffee Flavored Water]なのではないかとよく思うのである。


人は何をコーヒーと呼んでいるのか。
コーヒーの定義とは。
コーヒーとはなんだろう、水とはなんだろう。
コーヒーと水は何が違うのだろう。

飲むとはどういうことだろう。
飲んだら体の中で何が起こるのだろう。
数秒後にはそれは私の一部になってしまい、コーヒーではなくなるのか。

なぜ飲まなければならないのだろう。
私はそれを本当に必要としているのか。
なぜ飲みたくなるのだろう。

コーヒーと同じ色素と匂いを施したお湯ではダメなのか。
それがコーヒーの隣に並べられても私はコーヒーを選べるのか。
何をもって本物とするのか。
そもそも本物でなくてはならないのか。


私は日常の多くの瞬間において、こういった哲学っぽい文章を思わず頭の中に作り出してしまう癖がある。
隣りにいる人とそれについて話そうとしても、会話が成り立たずに寂しい思いをすることになるし、
またあまりにも複雑で膨大な文字量が思考を独占して目の前のことが手につかなかったりするので、その興奮を沈静化させるべく、未来の自分や他者にも読める形でこの場に残して置こうと思う。


本質を見抜く技術が持つ作用は非常に大きいものである。
いや、常というものが無いのだとしたら、これは必ずしも適切な表現ではない。

私が言いたいことはこうだ。
他の殆どの行為と比べたとき、本質を見抜くという行為の影響は大きく、重要な発見につながるプロセスへの入り口だと思うのだ。

発見を重大と捉えるのは、私がただそれに意味を見出すタイプの人間だからということに過ぎないが、ここは私が自由に執筆できる場あるのでこの前提を今後も全体に適用する。


不安や心配といった個人的な脳の妄想でも、記憶という過去の呪縛でも、一時的で脆い性質を持つ肩書きや収入でもない。
本当にそこにあるものは何か。
今、そこで何が起こっているのか。

本質が何であるか、まだそれを理解しきれていない今の私が、それを想像することは膨大なエネルギーを必要とするし、まだ理解していないものの発展を想像することも、また難しい。
私はとても小さいのである。
まだ何も理解していないのである。


私は今のところ、先祖と環境のコピー品でしかないと感じている。
しかし同時に、私がそのように表現したくなるこの肉体には、まだ私が認知しきれていない使い道があるとも感じる。
少なくともその可能性に私はとてつもない奥行きを感じ、そのスケールというのは、私が生きている間ずっと手を伸ばし続けても到達できないくらい長いものかもしれない。

しかし他の視点、眼球が全くの同じ地点にない限りは、他人はまるで違う見方をしていたりする。
仮に同じ視点であっても受け取り方は違うかもしれない。
これが物質等の面白いところである。

私はその奥行きが、どれほど長いかについてのみ感じ、考えていたところ、ある日突然、幅について知らせてくれる他者がいたりするのである。
もっと長いものについて教えてくれる他者もいるのである。


知るということで、疑問を持ち探究し、また知ることを繰り返すその行動により、自分が見えているこの壮大な世界、意味を告げられずに投げ入れられたこの世界の中において、自分の目の前では一体何が起こっているのかということについて、少しは理解が進むのではないか。

そんな夢を始点に、私の思考を記録していく試みをこの場所で行う。

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