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エゴは消失ではなく拡大させることで幸福獲得に貢献する III 〜学問の目的は排他性ではなく包括性を身につけることである〜


提起

皆様もこんな言葉を耳にしたことはあるだろう。
『これは感覚的なことだから言葉にするのは難しい』

私はかねてよりこの言い回しに違和感を覚えてきた。
どうして感覚というものを表現する時に、言葉がその手段になり得ないのか。
感覚と言葉というものは水と油のような、決して混ざり得ない存在なのだろうか。

私には感覚も言葉も一人の人間が己の中に持っているもので、共存しているものだと思う。
共存しうるものだと思いう。
言葉によって感覚は揺さぶられたり、感覚を言葉で表現することは古来より人間が行ってきたことだ。

今回は、私達の意識の中での言葉の位置づけを明確にしながら、この世界において何かを学ぶということは意識の縮小ではなく拡大を目的としている、すなわち生きるということは排他性を極めるのではなく、包括性を身につけるということである、という論を展開したいと思う。

全ては繋がっている

まず、壮大な前提となってしまうが、この世界に意味のないものはないと思う。

この世界に存在している以上、他の何かと一切の物理的関係を消すことは不可能である。
この世界は物理的な世界だからである。
世界という一つの大きなボールの中に全てが繋がりながら、世界という存在に包まれながら、私達は一つ一つとして世界を支えるように存在しているイメージだ。

ここで言う物理的というのは、手で触れるかというレベルの話ではなく、原子や素粒子レベル等のことである。

そして、この世界に存在する全ては言葉や数式等を用いて説明可能であると私は信じている。
可能不可能は単に時間の問題である。

この世界はなにも謎に満ちたものではなく、全てが丸く収まって繋がりあい、常に均衡のとれた美しいものであると、私は深く信じている。

そして、すべてのものは何かから影響を受け、形を変え、そしてなにかに影響を与える。
そうやってこの世界は常に変化をしながら『生きている』。

その大きなボールのような世界の中では、どんなものでも、いつだって世界の一部であるはずで、全てのものは何かを介して常に繋がっているものなのだ。

言葉は、言葉でないものと繋がることができるのだ。

言葉は何かによって生まれる。
言葉以外のもの、たとえば美しい芸術作品のもつ力が人間によって捉えられ、その人間は心を動かされ感動し、誰かに伝えようとその感動を言葉にする。
これは芸術の持つ力が形を変えて言葉へと変わる例である。

直接的なつながりを持つヒトやモノを辿り、力というものは世界の端までたどり着いてしまう。
世界の全てはつながっているからこそ、ある力は形を変えてどんどん移動していける。

これが世界が世界として生きている様であると思う。

人生の目的は学ぶこと

この論を支えるもう一つの前提が、生きることは学ぶことであるというものだ。

見る、聴く、感じる、出会う、変わる。
今まで経験しなかったものを経験することで、自分を構成するものがどんどん増えていく。

何かを学ぶということは自分というものを拡大させていくような行為である。
この学びによる人間としての成長は、私の生きる目的である。

悲しみや苦しみを経験し、人の気持ちが理解できて優しくなれる。
辛い状況に置かれたときでも、自分を保ち生き続ける術を身につける。

学べば学ぶほど、自分を客観的に見ることができ、視点はより上へと持っていかれる。

人は自分が過去に経験したものや自分より下にあるものは(それが物理的であれ知覚的であれ)、容易に見渡すことができる。
過去の自分と同じ状況にいる人をみれば、その人がどんな気持ちがすぐに理解することができる。

私達は寿命という与えられた時間を使って、様々なことを学び自分を成長させる。
記憶と呼ばれる場所に、学んだことを置いておく。

私達が未来を見ることはできないのに、過去を見ることができるという仕組みは、
私達の人生の目的が未知の場所に足を踏み入れ、そこにあるものを知っていくことであると証明しているのではないか。

より高く、より広い場所へ

何かを学ぶとき、行うとき、決断するとき、その方向性を分離や隔離とするのではなく、包括性を目的とすることは大切なことである。

『この世界とはなんだろう』
『我々人間とはなんだろう』
『我々人間がここにいる意味とはなんだろう』

こういった人間の原始的な疑問は哲学と呼ばれる学問を生んだ。
そしてその疑問に対する答えを探すかのように、人間の知の探求は様々な方向へと向い、学問は細分化されていった。

私達人間の知的活動は”この世界を理解する”という、なんとも抽象的で原始的で哲学的な目的のもとに展開されているのだ。

高い場所では抽象的なことを扱い、
低い場所では具体的なことを扱う。

たとえ、一時的に詳細な研究に没頭するとしても、長い目で見ればそれはより高くより広い場所から世界を眺めるために必要な知識を得られるから、ということに過ぎない。

そして高い場所と低い場所は常に繋がっている。

知の探求だけではない、精神的探求も然り。

エゴイスティックな考え方を辞めるということは、自分という感覚を無くすということではない。
ただ、エゴを拡大させるだけなのだ。
エゴと呼ばれるエリア以外のことについて意識を向け、学び、受け入れる。
そうすると自分と呼べるエリアがエゴを飛び越える。

いつしか世界そのものの枠に到達するかもしれないーーーという夢をつい抱いてしまう。

私はどこにいるか

『私』という言葉は、『私ではないもの』を生み出す。
『私』と『私ではないもと』の境目にある膜のようなものがエゴだ。
私がエゴなのではない、『私』と言う事のできるこの状態がエゴ(機能発動中)である。

そのエゴという膜の中にとどまっていては、狭いし寂しいし、世界に自分だけしか居ないと感じるから、他を見出して、それと繋がって安心しようとする。

所属や他者等という『他との関係』を求める。
しかし永遠の繋がりを約束してくれる他者など居ない。

私達人間が、人間としての崇高な目的を達成しようとするのなら、
エゴという膜から抜け出し、素直な気持ちで他を理解し始めるということが大切だ。

大丈夫だ。
どんなに意識が拡大しても、エゴが何かわかっていればまたいつでも戻ることができる。

人間として成長する、知の探求をするということは、
別の場所に行ってしまうのではない、自分という存在が変わってしまうのではない。
自分のいる場所を基点に、果てしない未知の世界へ飛び出し、知り続けるということだ。

視点のズームイン・ズームアウトを自由に繰り返しながら、抽象的な探求も具体的な探求も楽しむ。

高い場所から世界を見下ろして、昨日の泣いていた私が滑稽に思えたり、
低い場所で隣の誰かと繋がることにより、あぁ私は存在しているのだと安心してみたり。

私はどこにでも居ることができる。
この安心感がゆえ、今日も知の探求をすることができる。

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