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いつか見た風景 82

「老人と猫」

 

 我が家の猫の額ほどのリビングに知人から借りて来た猫が登場したのは一週間ほど前の事だった。猫の手も借りたい事情が私にあったものだから。何しろ猫の目のように目まぐるしく変化する現代社会や私自身の心の深層を探るには、猫も杓子も猫被りするテレビやネットの情報だけじゃ心許ないからさ。

                スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス


「君が幸運を運んで来るって本当なの?」


 ヘミングウェイが友人の船長からも貰った「スノーボール」って言う名のネコがいるんだけど、前肢の指が6本ある多指症だったって聞いたんだよ。なんでも多指症のネコはさ、5本指のネコより手先が器用で木造船の大敵だったネズミを捕える名人だったから船乗りの間でも「幸運を運ぶネコ」って呼ばれていたらしいんだ。6本指のそのネコたちはその後に「ヘミングウェイ・キャット」とも呼ばれるようになってさ、キーウェストのヘミングウェイ博物館には今でもその直径の子孫が50匹ほど気ままに暮らしているらしいんだけど、一匹くらいウチに遊びに来てくれないかなって密かに思っていたところなんだ。

 そうそう、それで思い出したよ。「あちこち旅して回っても、自分から逃げる事はできない」って確かヘミングウェイが口癖のように言ってたと思うけど、私の場合はさ「あちこち移動するのが厄介になると、ついつい自分の分身を作ってしまう」って感じなんだよ。昨日も夜中に喉が渇いて冷蔵庫に飲み物を取りに行く途中でさ、ちょうど何人か私の分身と鉢合わせしたところなんだ。世界中の冷蔵庫の中の貴重なペットボトルの水資源に過度な利尿作用を促す怪しい成分を混入している謎の組織の陰謀を暴こうと奮闘するおとり捜査官の私とか、トイレに向かう途中で別のミッションの最中に知り合った二回りも三回りも歳の離れた女性記者との時空を超えた恋のお相手役の私とかにね。

 それでさ、彼女は水洗トイレからうっかり流れ出た個人の記憶情報を不正に回収している闇の業者の存在を明らかにしようと取材していたらしいんだけど、そんな彼女と交わした会話の中で「あっ」と気づく事があってさ。もう一人の私が追っていた謎の組織と彼女が暴こうとしている闇の業者ってのは、どこかで何か深い関わりがあるんじゃないかなってね。巨大な陰謀の入り口と出口が繋がったような気がしたんだよ。

 それから先週は確か、月とか火星の秘密を握る謎の宇宙人との人類の未来を賭けた交渉に挑むただの一般市民の老人ってのもあったかな。そうそう、ある朝突然に得体の知れない甲殻類の怪しい生き物に変身してしまった身寄りのない老いた私が近所のコンビニにアイスクリームを買いに行く壮大な冒険談ってのもあったっけ。それでさ、どれもこれも私一人が奮闘して、その後に私一人で反省するっていう実に侘しい展開にいつもいつも陥ってる事に気づいたんだよ。だからせめてさ、私とそんな行動を共にする気の合うバディが欲しいと思ってさ。やっぱり冒険の相棒は「幸運を運んで来る奴」が良いに決まってるからね。だからヘミングウェイ・キャットなんだよ。

 

「腹ごしらえしたら冒険に出かけるぞ!」


 相棒の事は「ライスボール」って呼ぶ事にしたよ。スノーボールのパクリじゃないよ。奴はおにぎりが気に入ったみたいだったからね。きっと食べ盛りじゃないのかな、ちょっと大き目のツナマヨとシャケをパクリと平らげたんだ。

 6本指の事を聞くと器用なのは手先だけじゃないって自慢してたっけ。思考や判断、それに察知力や想像力もかなり鋭敏で、何よりそれらをフレキシブルに器用に組み合わせて能力を発揮出来るって言ってたよ。どこか私に似てなくもない感じがちょっと心配と言えば心配だったんだけど、まあとにかく相棒の存在は心強いからね。しばらくの間はライスボールと一緒に生活して行動を共にする事にしたんだよ。

〈あなたの冷蔵庫が狙われている 〜ペットボトルの成分改ざんの真相〜〉
〈実録、深夜のトイレの記憶回収業者の実態〉
〈宇宙人との交渉前に知っておくべき10の法則〉
〈暴走する脳内オキシトシン 〜変身願望と自己破壊〜〉

 無造作にテーブルに置かれたメモ。ライスボールに少しでも私の事を理解してもらおうと、思い出せる一週間の出来事を今朝私が走り書きしたものだ。そのメモを見ながらライスボールが笑いながら言った。「冒険にいちいちタイトルをつけるのは自分の事を必要以上に認めて欲しい証拠だね。それからさ、まさかタイトルはいつも冒険の前につけたりしてないよね。だとしたらちょっと重症だよ。ストーリーが限定されるからさ、冒険の…」

 ライスボールが言うにはさ、人間はこれから起こりうる事を予測したりするのが大好きな動物だけど、それはつまるところ「限定」に他ならないって。つまり意味のない悲観的な、或いは楽観的過ぎるバイアスだってね。なるがまま、あるがままが不安なのは分かるけど、その不安を煽り過ぎなんじゃないかな、特に最近の人間たちはって彼は言ったんだ。だからせめて私とライスボールのこれからの冒険は、そういう余計な不安を前提にするのはやめようってね。


「無駄な争いを避けるための交渉の鍵は私が握っているんだよ」


 自由に、気ままに、気まぐれに、日常の冒険を謳歌しようってライスボールが笑っていた。その方が前頭前野も活性化して、交換神経活動も高まるからって。つまりは私の脳にも体にもとっても良いはずだからねってさ。



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