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いつか見た風景 42

「バイアスの花の影で」


 大いなる不満とちょっとした不満の間に横たわる粘着性のある不思議な存在を私は発見した。自己と言う奴だよ。つまり目の前のテレビから流れてくる地球環境や世界情勢への憂いは、私の箸の先のマグロやシメサバの刺身の薄さと、私を通じて確実に繋がっている訳なんだ。少なくともあと1時間くらいはね。

                スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス


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 記憶の森がどんどん消失していくのとは反比例して私のある種の感覚はどんどん研ぎ澄まされて行く。週単位の微妙な気温や湿度の変化とか、行きつけのスーパーの刺身の日替わりの厚さの変化とか、それから世間の人たちの会話の中に潜んでいる極小単位の謎のバイアスの片鱗すらも必要以上に察知してしまうのだ。ある瞬間に同時に私の脳内に飛び込んでくるそれら他人のバイアスの種は、時にそのまま脳のどこかの部位に定着し、周りの養分を吸い取って発芽し、時間をかけて見事なまでにオリジナルな花を咲かせたりもする。

 スーパーの鮮魚売り場のパートのおばちゃんと年下のちょっと生意気そうな上司との小競り合いらしき光景が目に入った。最近オマケが多すぎないかと刺身のパックを幾つか手に取り、グラムと値段の表示を何度も確認して無言のメッセージをおばちゃんに送りつける若いこの上司は、きっと先月辺りに系列店からテコ入れのためにやって来たやり手を自負する社員なのだろう。お客さんが喜んで買ってくれるなら別に構わないじゃないかと、その無言のメッセージに批判的な視線を少しばかり混ぜながらも屈託のない笑顔を自然に返すパートのおばちゃん。しかし次の瞬間に耳に飛び込んで来た二人の会話に私は驚愕した。


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 まずは、おばちゃんが「朝からウチのクーラーの調子が悪くってさ、息子は夏休みになっちゃうし」と何気ない会話の中にワタシは朝から機嫌が悪いんだから発言には細心の注意を払いなさいよと無言のメッセージを込めた先制攻撃を仕掛けて来た。

 すると間髪入れず「息子さん就活だって聞きましたけど、確か理系でメーカー希望だって。大変ですよね今のご時世は」って失われた日本経済の30年をバックボーンに、分かってますよね商品の価格が上がらないと賃金も雇用も上がらない基本原則をって脅しに近い畳み掛けで上司が応戦する。

「ワタシにはよく分からないけど半導体がとうしたとか、基礎研究がどうのこうのとか、毎日うるさくて」と、目先の利益ばかり追っかけると取り返しのつかない事態になるんだよとおばちゃんが苦笑いで釘を刺して来る。

 表向きは基礎研究の大事さを表明しながらも国の実体はどうなのよって、お客さんやパートのおばちゃんへの対応と強引に関連づけでもしたいんだろうけどアンタの話は滅茶苦茶だなと、少し怪訝そうな顔をした上司が、それでも体裁を取り繕いながらも「ちょっといいですか」と笑顔でおばちゃんをバックヤードに誘導して行く。

 何かが始まる。二人の背中を目で追いながら、何か大変な事態に発展しそうな予感が私の脳裏を過っていた。


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 私の怪しくもあやふやな記憶に間違いがなければ全てはあの日のあの瞬間から始まっている。気がつくと鮮魚売り場に並ぶお刺身ちゃんに不穏な変化が見て取れた。薄いのだ。お刺身ちゃんの1枚1枚が見事に薄い。それは同時に少しばかり刺身の枚数が増えたことをアピールしていて、ある種の錯覚を誘発していた。あれ?お得なのかなと。パッと見た感じは見栄えがしなくもない。何だか枚数が増えて嬉しい自分が確かにそこに存在していた。これがあの日に私が見送った光景と何やら因果関係がある事は明白だろう。

 しばらくして私が実食による調査研究した結果は次の通り。マグロやシメサバの薄い1枚はどうにも我慢出来なかったけど、サーモンとかヒラメは何とか大丈夫。つまりサラダ風にアレンジすればオリーブオイルに塩でもイケるし、マッシュルームやブロッコリーと合わせてスウィートチリソースをかけてもサーモンやヒラメなら全然OKだ。しかし未解決のマグロシメサバ問題を早々に何とかしないと私の大事な晩酌が色褪せたままなんだよ。だからついつい今年は油が乗った厚切りのカツオとか鯵の刺身に目が行ってしまうんだ。

 そんな私の見解を私のお気に入りの金曜日のヘルパーさんに披露していると、衝撃の未来予測を彼女から聞かされた。人気のひと口サイズのクッキーが値段は据え置きだけど中身の個数がどんどん減っているそうなんだ。ここ数年の間で2個とか3個とか、このままの割合で減り続けると2030年頃には中身が空の袋づめクッキーを今と同じ値段で買わされる時代が来るそうなんだって。ちょうどガソリン車が世の中から消える頃にね。自動運転も当たり前でさ、何しろ自分で運転する必要がないから車を所有する必要もなくなっちゃうらしいよ。お陰で不要な事故とか煽り運転とかは根絶出来るだろうけどね。ダブルクラッチとかヒール&トゥーとか、大昔に夜の国道で練習した懐かしい思い出と共に走る喜びがこの世から消滅するのは私としてはちょっと残念な気分だよ。

 想像以上に未来は過激に変化するもんだなって感心していると、でも心配はいらないわよってヘルパーさんが笑いながら言っていた。その頃にはメタバースとか呼ばれてる仮想空間の中に私らの生活拠点の殆どが移っているはずだから、実体はあってもなくても大差ないんだそうだよ。まあ考えようなんだろうけど今の私の日常生活と大差ないなら別段心配する必要はないのかな。ところでそのメタバースってのは一体何だい? スーパーの鮮魚売り場のバックヤードに我が家のリビングが好きな時に瞬間移動するってことなの?


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