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バリ島でヒプノセラピー(前世退行療法)を受けた時のこと

物心ついた頃に見た、恐ろしい夢がある。


3、4才くらいの女の子が暗闇の中で歩いている。道はない。彼女は無重力の宇宙のようなその空間を、縦横無尽、上下左右に1人で歩いている。その彼女の上空を、一匹の竜が円を描きながら飛んでいる。危険だ。竜がもし彼女に気づいたら、女の子は襲われてしまう。彼女は、全く竜に気がついていないようだ。こんなに近くまで迫っているのに。竜も、不思議なことにまだ彼女の存在に気づいていないらしい。その映像を見ている意識存在が、私のようだ、その意識存在は心の中で、必死に、彼女に「逃げて」と叫んでいる。竜に、「お願い気づかないで」と切に願いながら。

でも今にも竜が気づく、竜が…!


その夢の記憶は、恐らく私が3才かそこらなのだが、あまりに鮮烈で恐怖で、大きくなってもしばらくその夢を覚えていた。しかし実際の出来事ではないことは子どもの頭でも分かっていたので、恐ろしいけれど奇妙な夢、しかしそれが何か言葉にならない次元、日常生活の理解を超えた次元で深い意味があるようなものの気がしており、自分のこころの中にしまっていた。両親にそうした夢の話をしたこともあったかもしれないが、小さい子どもの言語能力、夢の恐怖の言語化は難しかっただろうし、自分が体験した景色と恐怖の共有は難しいものだと子どもながらに朧げに理解していたかと思う。誰しもが持っているだろう、自分だけの不思議で大切な心の箱の中に、その恐ろしい映像はしまわれていた。

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さて、35歳になった私は、10年以上続く体調不良に悩まされている。ひどい貧血、低血圧、外気温の状態と同期するように変動する体温、代謝異常、年々悪化するアレルギー体質、無月経。病院での検査も様々に受けたが、結局これという原因がつかみきれなかった。生活習慣を根底から根こそぎ変え、エネルギーワークを学び自分なりの努力を積み重ねてきたが、それでも根底からの自身の身体の弱さは覆せず、一年ごとに弱っていく身体状態を認めざるを得なかった。10年前は冬の寒さだけが天敵だったが、もはやこの1~2年は免疫が極度に低下し、季節を問わず身体は恒常性を保つことが困難。春の花粉にも、夏の暴力的な酷暑にも、秋の台風の低気圧でも体調は外界の状況とまるで同期して悪化する。ひどいときは、毎食後に消化のために少ない血液が胃腸に集中するために貧血になり2,3時間ほど横たわっていないといけない状態。「眠る」「食べる」といった生命存続活動だけで生き抜くことが精一杯。


物理的、意識的に自分は何を間違えてきたのだろう。食品添加物や農薬はできる限り避け、アレルギー源の食材は口にはしない生活。シャンプーや石けんもオーガニックにしたこの数年。自分が物質的に体に害のあることは、とことん止めてきたつもりだったが、まだ何かあるのだろうか。本や体調日記、過去の生化学検査結果を読み返しても、まだわからない。遺伝子異常もありそうだ。後考えられるのは過去の精神的な傷の要因、無意識の領域がからだに及ぼしている影響だが、はて… 過去に仕事で負った傷も、恋愛の傷も、中学校の不登校時代の傷も、この35年の人生で起こった辛い出来事の記憶は自分なりに取り組み、ワークショップやセラピーを受け、様々に振り返り、それらは癒されてきたような気がするが。あとはどんな恐れが自分の中にあるのか。意識上では正直なところ思い当たらなかった。


引っかかっていたのは3年前、インド占星術師に占ってもらった結果だった。それによると、私は前世で、外国で何か人を助ける仕事をしていたが、ある時突然自分の意に反して亡くなったのだという。その亡くなった際の思いを引きずっているのだろうと。ふむ… 前世。いよいよ私もそうした世界へ足を踏み入れる時が来たか。もうこの人生の中で取り組む過去の課題が見当たらないように思う。前世退行療法(ヒプノセラピー)を受けてみるタイミングが来た、という気持ちになった。前世に通じなかったとしても、自分が無意識的に作り出したマインドのブロック、それが溶けるヒントになるかもしれない。だとすると自分にとって良いことしか起こらなそうだ。無意識、潜在意識の世界に飛び込んで、自分の過敏な身体の謎を解く鍵を見つけたい。

前世退行療法と言っても、催眠状態に入った私の意識が語るその物語が、本当に前世がどうかはわからない。幼児・幼少期の記憶を思い起こすこともある。なんにせよ、わたしという潜在意識が持っている膨大な物語へとアクセスすることになる。


前世に関しては、最近面白い研究内容を見つけた。記憶は脳に格納されているのではなく、私たちの身体中に循環するRNA(リボ核酸)の中に存在するという。このRNAは、DNA含む様々な細胞内成分とともに生殖細胞に組み込まれている。その生殖細胞の情報は子々孫々に受け継がれていく。つまり、先祖の経験した記憶は、生殖細胞を通じて、子孫の私たちに受け継がれるという可能性があるということだ。私たちが持つ前世の記憶や既視感は、私たちの先祖が経験したことを再経験しているのかもしれない。私たちのいのちは、連綿と続く歴史的存在…… それはとても面白い。そして「身体」の智恵を生かすことが現存のテーマである私にとって、こうしたスピリチュアルで、ともすればいかがわしいと世間一般から思われる分野のことが、身体との実際的なつながりによって説明されつつあることはとても嬉しい。


冬の寒さで一日いちにちと弱って生命の火が尽きそうになる直前に、するりと危機状況を逃れバリ島に移動して4ヶ月、極限的に弱った私のからだはバリの大自然や出逢う人々、おいしい食事のおかげでみるみると健やかになった。そしてある日、「この人なら」と思うヒプノセラピストを探しアポを取り、晴れた日の朝、バイクを運転して片道2時間弱の彼女のオフィスを訪ねた。


出会ったセラピストのカルティカ、女優かと思うほどの美しさと聡明さを兼ね合わせた女性。素晴らしいセラピスト。

http://www.hhhypnosis.com/


対面後、プレセッションにて、何を糸口にヒプノ状態へと入っていくかを相談する。あれやこれやと話しているうちに、ふと、冒頭で書いた「竜に襲われる夢」を思い出した。それを、ここでのセッションで呼び出すことにした。そこから2時間半のセラピーの間、私の口から話されたドラマは、思いもよらないおとぎ話になる。

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…7歳くらいの女の子が木からぶら下がったブランコに乗って揺れている。名前は、マリア。ブロンドの髪、青い眼。ヨーロッパのどこかの国。空は青く白い雲が浮かび、草原は広く、風で草がなびいている。どこまでも平和な、美しい光景。

そこに、突如空から竜がやってくる……


バッサバッサと竜は翼を広げてあっという間にマリアに近づき、瞬く間に竜はマリアを襲う。マリアは一瞬で竜の大きく開けた口の中に飲み込まれ、その鋭い牙で八つ裂きにされ、息絶える。

目の前に大きく開かれた竜の口、口内に飲み込まれ身体を引き裂かれる痛み、叫び、声にならない叫び、「お母さん、助けて!!」

出来事は一瞬だったのだろうがマリアにとっては全てはスローモーションで、痛みと苦痛と恐怖は、この上なくビビッドで激しく、収まりがつかなかった。身体が死んでも尚、念は収まらなかった。「お母さん、私、死んでしまったよ。もう二度と会えなくなってしまったよ。なんで守ってくれなかったの… なんで、なんで、守ってくれなかったの。守ってほしかったよ…」


マリアの母親は、後からマリアが殺されたことに気づく。


「ごめんなさいマリア、私のせいで、私が気づかなかったために、あなたは殺されてしまった… なんということをしてしまったのだろう、もう取り戻せない。なぜ気づかなかった? 私。私の命と引き換えに、あなたを取り戻したい。でも叶わない。マリア、マリア、ごめんなさい、私のせいで、あなたは帰らない人になってしまった。私があなたを殺してしまった」


マリアの母、絶望と後悔で号泣している。


セラピストの声がする。マリアのお母さん、どうしてあげれば良かった?と…


映像は、もう一度、マリアが襲われそる直前まで巻き戻される。竜がやってくる。


マリアの母は言う。


「私はマリアを抱きしめて覆ってあげる。そして私たち二人を包む、硬くて丈夫な、繭を作る。白光色の繭。その繭はどんどん厚みを増し、とても頑丈で、竜も絶対にこれを壊すことはできない。

繭の中は、七色に光る光の玉で溢れている。この中は慈愛と安全に満ち足りている。今はもう赤子に戻ったマリアは、私の腕の中に抱かれ、幸せそうにニコニコと笑っている。


私もとても満ち足りた気持ち…」


マリアの母は、一転して明るい笑顔になり、嬉しそうに楽しそうに、その情景を語り続ける。実際、今彼女の目の前にその七色の光の玉は弾け、赤ん坊を抱いた腕は温かく、至福に包まれている。


竜は、繭の向こう側にいる。その鼻先をコツンと繭に当て、どうこの中に入ればいいものかと、首を傾げている。なんだか可笑しい。マリアの母は続ける。

「この繭は大地と、地球と繋がり、一体なので、竜は、この繭のエネルギーを壊すことはできない。繭はさらに大きくなってゆく、殻は丈夫だが柔らかさも増し、今は私は、繭と一体となりながら、ゆっくりと竜に手を伸ばす。繭と一体に伸びた手が竜の鼻先に触れ、そこから七色の光が竜の身体に拡がる。竜はいまや、人間を襲おうという気持ちはどこかに行って、何か嬉しく、楽しそうにダンスしている。この竜は、実は子どもの竜だった。楽しそうに満ち足りて、竜は、空へ還っていった。彼のお父さんお母さんのいる家へ帰るのだろう。


私には分かる。竜が襲ってくる時はいつ何時でも、私は時間を止めることができる。時間は意味を為さない。時を停止し、その間にマリアの元へ行き、しっかりとした繭を作り、彼女を守るのだ。大切な人を私はこうして守ることができる。マリアは繭の中で完全に安全であり、危険はない。

そして危険が去った後、マリアはまた何事もなかったかのように、草原に戻って遊ぶ。遊び疲れたら父親と私のいる家に、帰ってくる。

彼女は、いつしか、青い目をした友達を見つけて、その子と遊び始める。マリアは、マリアの別の人生を、歩み始める。


自分を守るために、大切な人を守るために、無垢なだけではいけないのだ。智慧と賢さと強さも必要なのだ…」


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セラピストは私が一つ一つの感情と物語を表現することを手助けしてくれた。私が言葉にすること、自覚することも気づかなかった感情を。

それらは海の底から意識上に浮上させるにはあまりに恐ろしい体験と感情だった。セラピストとの安心、安全な守られた空間があったからこそ、やっと表出するのが可能になった感情。私がそのすさまじい恐ろしさから逃げずに、留まり、誇張することを、彼女は助けてくれた。


きっと私には、まだマリアが竜に襲われた際の描写を克明に感じ切り、表現することは難しかった。完全に「マリアになる」、ことは恐ろしくてできなかったのだと思う。けれどそれ以上に、その後に続くマリアの母のダイナミックな、生き生きとした躍動感が、全身の細胞を使って物語を生きる、生き直すということを可能にしてくれた。


存在する感情は抑圧してもなくならない。出し切らなければいけない。出して、出して、出し切った後に… 「どうだったら良かった?」 本当に、自分が望んでいたことを表現する。


マリアが襲われているドラマの途中で、マリアは竜に手を伸ばそうとした。「だって、竜も、愛でしょう。私の一部」 けれど、セラピストは言った。「それは今ではない」。それがたとえ正しかったとしても、まずは、マリアがマリア自身の恐怖と、本当の望みを、余すところなく存分に味わい切らないことには、深い場所からの治癒は生まれない。


深く深く大きな呼吸と共に、感情を吐き出し続ける。この、シンプルで大きな「呼吸」、私たちのいのちを証するもの、ここに意識を傾けていくことがどれほどの助けになるか、どれほど私たちを生かしてくれるかを実感した。


私は、今まで、深い呼吸というものを知らなかった、と思った。


自由自在に収縮する心地よいリクライニングチェアーの上で、正味2時間半、私はじったんばったんと激しく身動きをしながらこのドラマを演じていた。手足を動かし、身体を丸め、号泣し、叫び。脚本も登場人物の演技も全て一人で行う。始める前は、部屋のエアコンで足先が少しひんやりしていた。それが、ドラマの最中から激しい全身運動になり、終わった時には足先も腹部も全身が熱かった。〈寒い〉という知覚も、頭(マインド)の力がかくも大きいということなのか。


そして、このマリアのドラマが進行している最中に、私の脳裏にはっと、ひとつの記憶が閃光になって姿を現した。


私には、3歳か4歳頃に、自宅で親戚の男性に、性的暴力を受けたという記憶がある。


これは実際に起こった出来事なのか、それとも、3歳の女の子がテレビか何かで衝撃的なレイプシーンを見てしまい、あたかも自分の身にもそれが起こったと記憶を捏造してしまったのか。小さな頃から今に至るまで、これが実際に自分の身に起こったことなのかどうか確信はない。けれど、その映像と自分の身体感覚と恐怖はあまりに鮮明で、生々しく、私は小さい時から、この記憶をずっと保持していた。大人になるまで、大人になってからも、あまり多くの人には語らなかった。


その記憶では、自宅の2階寝室で、小さい私の上に、大きな身体の男性が乗り、私は押さえつけられている。その日は家に両親がいなかった。そして、私の2人の姉たちは、外へ遊びに出かけていて、私の様子に気づくはずもなかった。私は恐ろしく、吐きそうに気持ち悪く、そして息が全くできなかった。口は塞がれており声はとてもあげられなかった。自分が今なされていることが、一瞬でも早く終わってくれないかと心の中で叫ぶばかりだった。そして外にいる姉たちにも心の中で必死で叫んだ。「お姉ちゃんたち助けて、助けて、助けて!!!」その心の叫びは全く無意味であることは私にも分かっていた。それでも心の中で大声で必死に叫び続けた。そして、突然、その悪夢の記憶はぶつっと途切れる。あたかもテレビの電源が、コードから引き抜かれて乱暴に消されてしまったかのように。


こんな記憶につながるとは思っていなかった。普段まったく意識には昇らない記憶。脆弱で庇護を必要とする3歳という年齢、その頃に受けたトラウマが、私のこころの底で恐怖の塊となり残っていた…?その体験を思い起こすと、今も、のど元の息ができない感覚、吐きそうになる匂い、不快感、視覚・嗅覚・聴覚・身体の内部感覚、すべての感覚から逃げ出したくなる。そして、顔やのど周辺の筋肉が引きつるのがわかる。

凄まじい恐怖は、あらゆる身体活動を制限する。わたしのからだが、恐怖に耐えきれず意識をシャットダウンし、解離状態に置いたとするなら。心拍数は減少する。脳への酸素を含んだ血液の供給が大幅に減少する。身体の中で最も大きな電磁場となる心臓、その心臓が弱ると、自動的に体中の細胞がその弱いリズムにシンクロし、弱る。免疫機能が抑制される。私の、身体の弱さのルーツは、この強烈な体験をした3歳から始まっていたのか…?


マリアが私の前世の存在なのかどうかは分からない。マリアの母の存在も、私がレイプされたという記憶が実際か、そうでないかも。本当かどうかは全てどうでもよい。確かなことは、これら全ての物語が、私の潜在意識の大きな海の中にあった…ということだ。物語を生み出した母胎の潜在意識、何にせよここに、脚本も感情も象徴も恐怖も、そして望みも智慧も身体が解放されるこころからの安堵も、すべてがあった。これらを引き出してくれたセラピストのカルティカに心から感謝した。


もしもマリアやマリアの母親が私の前世だとしたら。突然殺されたマリアの恐怖、突然我が子を失った母の恐怖、それらが今ここに生きている35歳の愛子という存在に通じていても不思議ではないような気がする。私は好きになった人や大切な家族を失うことに、毎回非常に大きな怖さを体験する。大切な人が弱り死の相を感じる時には、目に見えない恐怖でこころのバランスを崩して壊れ、身体も極限的に弱る。自分の死に匹敵するくらい、大切な人を失うことには、毎度爆発的なマグマのようなエネルギーが私の奥底から襲う。

私の生理が止まって6年、なぜ止まったかというと、マリアの視点から見ると、そこに性的な暴行を受けたことの傷があったからとみることができるかもしれない。マリアの母の立場から見ると、母親になることへの恐れがあったのかもしれない。私は自分の娘の命を守れなかった母親だ。母親失格だ。強い罪悪感。強力なレッテルを、自分で自分に刻印付けたか? 多少の心理学的知識が人間の複雑さを断定をすることは避けたい、しかし可能性として浮かび上がるものがある。

全てのトラウマは、私たちがより真実に目覚め、より幸せになるためにあるというのなら。それほどまでを体験したかったのか? それほど深く深く深い恐怖を、痛みを、叫びを、体験して尚、体験するからこそ、それを真に赦し解放してゆくプロセスで、私たちがより一層深い次元での感動と愛を体感できるというのか?私たちの内側にはそれほどまでに強さがあるのか?


感覚を開いていたらこの世の中は傷つくことばかりでとても生き抜いてはゆけない。だから感覚を閉じ、シャットダウンし、解離する。それは生存するための必要な手段。動物としての本能、反射という生き抜くための正しい措置。


けれど、もしも、感覚を開き、望まなかった事態に対して、「こうできれば良かった」と、望む在り方を存分に描ければどうか。全身で味わい、呼吸と共に吐き出し、望んだビジョンをあたかも実際に起こるかのごとく体験する。想像の産物であるのだから、日常のルールによって規定された思考と行動をぶちこわし、その裂け目から奔騰してくる根源的な生を思いのまま、望むままに生きる。その世界を生きることこそ真実のいのち。そうして恐怖を光に変えてゆけたらどれほど良いだろう。私たちが安全な場で、愛に満ちた場で、感覚を閉じることなく、存在してゆけたらどれほど良いだろう。それは可能なのだ。そこに、「自らと、共にいてくれる人が、いれば」。


セラピーが終わって、35歳の今ここにいる愛子に戻る。「3,2,1・・・」セラピストの誘導の声でゆっくりと時間をかけて目を開ける。自分が体験してきたことは、知的な理解の範疇を超えていた。ただ、全身の細胞がすべて震えて躍動した跡がありありと残っていた。私はありったけの涙を流しきっていた。両目を手で覆って、しばらくしてからカルティカに伝えた。本当にありがとう… この私の長い旅の間、ずっとずっと、共にいてくれて。


実際の時間にして正味2時間半だったが、時間感覚を失う長い旅だった。私はこの30余年の人生、そして、百年か数百年前の前世といえる人生、それらを含めて、丸ごとたましいの旅をしていた。

「セラピストのわたしだけの力じゃない、私たち2人で成した仕事。私を信じてくれたからこそできたこと。ありがとう」と、満面の笑顔の彼女。

そう、私は初対面のあなたを全面的に信頼していた。この人なら、と思い、会った瞬間に全幅の信頼を寄せた。あなたの元へ行こう、そう思った私の直感は正しかった。


この日の出来事は、これまでの人生を塗り替える大きな分岐点となったことがわかる。カルティカのセラピールームを出た後、世界は全く違って見える。丸っきり、新しい世界になっている。行きに通った景色が、帰りには、世界の皮が剥けて、瑞々しく、色が濃く鮮やかになっている。自分の大きな謎、自分が自分である所以、その謎の外皮がはらはらと落ち、ありのままの姿があらわれたような感覚。様々なバラバラのジグソーパズルのピースが本来あるべき場所に収まって、一つの大きな絵画が突然眼前にあらわれたような思い。

カルティカの場所から

感覚を開けば開くほど、この世の喜怒哀楽も愛別離苦も激しく、多様な次元で体験することになるだろうが、それをも耐え、抱えうる智慧と強さを、自らの内に眠っているそれらを、呼び覚ましていこう。


「私たちが本当に恐れているものは、自分自身の本来の力なのだ」

ー「光の手」バーバラ・アン・ブレナン

本来の力が顕現されたというのなら、一体どれほどのものなのだろう。私たちの、内側の光を恐れることなく。もっともっと輝かせていこう。それに伴い、気づかなかった闇が照らされる。自らの奥底に隠れていた、海の底に眠っていた澱が、影が露わになる。私の準備ができたとき、来るべき時にそっと掬いだされ、光へと還元されるのを待っている影が。それらすべてを強い根源的な光に帰する強さを、きっと、誰もが持ち合わせている。マリアの母は、どんなことだってできるのだ。愛する者を守るために、時を止めることさえも。


「潜在意識の世界、ここでは不可能なことなど、何もない」


セラピストのカルティカはセッションの最初にそう言った。

潜在意識は間違いなくそうであると、知っている。


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