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わたしたちは人を殴らず誰も殺さずとも生きていける

怒りのフラッシュバック

人の死や、心ない言葉、悲しいできごとのフラッシュバックのほかに、受けた暴力や罵倒に対しての「怒りのフラッシュバック」にすっかりやられてしまうことがあります。

わたしは、DV家庭で生まれ育ったので、人が声を荒げたり暴力をふるおうとする場面に遭遇すると、体調によっては昔のことが全部ぶりかえしそうになります。そんなタイミングで連日続くお相撲の「かわいがり」という名の暴力ニュースを見ていると具合が悪くなってしまうので、即時チャンネルを変えるようにしています。まさにわたしが祖父から殴られたのも、テレビのリモコンでした。

ときどき、自分の腕力を見せつけようとしたり、それを武勇伝のように語る人を見かけます。そういうときはその人と、大きく距離をとるようにしています。物理的な距離も心の距離もです。

人を殴ることに理由をつける人は、だいたいみんな同じ言い訳をします。「むかついた」「態度が悪い」挙げ句の果てには、「自分を怒らせたのは相手のせいだ」と言う人もいます。そして「伝統」や「しつけ」だの、理由をつけて暴力をくり返します。自分がされてきたことだから、今度は自分がする番だ、と連鎖をすることになんの意味があるのか考える余裕すらない状況は悲しいことです。

「でも、良い人だから」

万が一、良い人だったとして、「良い人ならば暴力をふるっても許される」とイコールだとはとても思えません。その逆に、「嫌なやつだから殴られても許される」がまかり通ったらどうでしょうか。
他人にとっての「良い人」は、別の他人にとっては「嫌なやつ」かもしれません。基準はどこにもないのです。現に家庭をめちゃくちゃにした祖父は、家の外では体裁よくふるまっており、近所の人からは”愛想のいいおじいさん”と思われていました。

「昔は体罰はまかり通っていた、昔は良かったのになぜ今はだめなんだ?」

ほんとに昔は良かったのでしょうか。
わたしは昔もだめだったと思います。

立場が上だから、普段は良い人だから、相手が悪いから……だから殴ってもいい理由になってしまっては困ります。

人間はコミュニケーションをすることができます。言葉があろうがなかろうが、表情やしぐさでも感情を伝えることができます。そして、相手の気持ちを感じることができます。想像をすることができます。
それは思いやりという言葉で言い換えられますが、思いやりとは自然に備わっているのではなく、お互いが少しずつ想像をする努力が必要だと思っています。

ここは短縮してはいけない部分ではないでしょうか。ただ、心に余裕がないままだとそれができなくなってしまいます。

祖父の背景に何があったのかはわかりませんが、おそらく、自尊心が低くプライドが高い人だったのだと思います。

不思議なことですが、相手に思いやりをもつことは自分自身への自信と少し繋がっている気がします。

血で血は洗えない

暴力は正義ではありません。腕の拳を自分のちょっとした機嫌で振り上げるわけにはいかないのです。ましてや、今までもこうだったから〜、という理由をつけて「伝統」とはとても思えない。

もし、電車で隣の席に座った人が自分の好きなバンドをディスっていても、殴ってもいい理由にはなりません。同じバンドが好きな人と共謀して、「わかりみ!!」と言ってボコボコに殴っても良しとされてはいけないのです。そして、そのバンドだって喜ばないはず。あなた(あるいはわたし)が好きなものは、別の誰かにとっては嫌いなものかもしれない。逆だってもちろん。

しかし、実際に、自分にふりかかったとしたらどうでしょうか。

殴らないどころか、倍以上の仕返しをしたいとさえ思うのではないかと考えてみると、「絶対そんなことは思わない!」と言いきる自信はありません。今のところは大丈夫ですが、いつかそう思ってしまったらと考えるとほんとうに怖いのです。
なぜなら、わたし自身の中に爆発しそうな憎しみの種があるからです。

祖父から殴られたあと、わたしは自分の部屋の柱をカッターでズタズタに傷をつけていました。ふと我に返って、柱に刻まれた跡を見たときの恐怖は忘れられません。一人っ子のため激しい人見知りでおとなしくピンク色やフリルが好きだった自分自身と、目の前の光景はあまりにかけ離れていました。その時、怒りでわたしの肩が無意識に震えていたことを強く覚えています。

祖父のことは、今でも許せません。
ですが、許せない家族を殺したいとは思っていません。
そのかわり殺したいと思ってしまわないように、無理に許そうとする努力をしないことにしました。

憎むことは自分を消耗します、そして誰かを憎む自分自身のことも憎みはじめてしまいます。あなた(あるいはわたし)の憎しみを無理に消そうとしなくても、相手を許そうとしなくても、あなた(あるいはわたし)は人を殴らなずに、誰も殺さずに生きていくことができています。血で血は洗えないのです。

だからどうか、憎いあの人たちがわたしの知らない場所で、幸せに暮らしていてほしいと願う。

そして、わたしのこのひとりごとだって、もし誰かにとって「ライフハック」になれたとしても、別の誰かにとっては「クソメンヘラの駄文」かもしれません。似たような人生経験をしている方にとっては、フラッシュバックのトリガーになってしまう可能性だってあるのです。

世界は地続きです。

言葉を発するとき、誰かと話すとき、そのことをいつも胸にとめておきたいと思うのでした。

(※2017.12.16「TABLO」に掲載された文章に加筆修正をしたものです)