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令和阿房列車論~その9『実歴阿房列車先生』より(2)

前回からだいぶ日が経ちましたけれども、ようやく100頁を超えました。

『ヒマラヤ山系』こと平山先生による百閒先生の回顧録も東京に上京した学生時代から終戦を経て還暦を迎えました。

学生時代の百閒先生

その中でまず驚いたことは、明治時代から昭和前期の文豪である夏目漱石に師事していたことでした。

東京帝国大学(現在の東京大学)に進学した百閒先生は、上京して1年後に漱石先生を訪ねています。

百閒先生と漱石先生のつながりは、百閒先生が旧制中学に入学した時代までさかのぼり、当時の県立岡山中学校で目を掛けられていた木畑竹三郎先生が漱石先生と同級であった史実が文中に書かれています。

漱石先生に対する百閒先生の思いは非常に強く、漱石先生が書きつぶした原稿用紙(いわゆるボツ原稿)を宝物にしていたほどで、漱石先生も呆れるほどであったから相当なものでありました。

さらに驚いたことは、芥川龍之介とも交友があったことです。親しくなったのは百閒先生が東京帝国大学を卒業したあとだけれども、芥川の名前を覚えたのは大学時代だったと書かれています。

夏目漱石や芥川龍之介と親交のあった百閒先生の文才は岡山時代からあったとはいえ、このような交友で拡がっていったのでしょう。

大学卒業後の百閒先生

東京帝国大学卒業後の百閒先生は陸軍士官学校の教授に任官するのですが、大学卒業から任官までの1年半を『遊食生活』していました。簡単な言葉で言うと「引きこもり」「ニート」といったところでしょうか。

当時の百閒先生は(大学時代に)結婚をされていたにもかかわらずニート生活をしていたことは(実家が)裕福だったからこそ成せる業だったのでしょうけれども、令和の時代でも夢を目指してフリーター生活をする人も少なくないことを考えると、百閒先生はニート生活を満喫していたのでしょう。

その後、法政大学で教鞭をとり日本郵船株式会社の嘱託になった百閒先生ですが、その間に『百鬼園随筆』の元となる短編作品を精力的に執筆されていました。

先生の書簡

『実歴阿房列車先生』には漱石先生や平山先生に宛てた百閒先生の書簡が度々引用されています。その当時は当たり前であった「漢字とカタカナ交じり」の文語体は、昭和の後期から平成・令和の時代に生き口語体(ひらがな交じり)の文体に慣れている私にとっては『古典文学』の世界に近いものを感じて(読むのに)苦労しています。

例えば、口語体で「お忙しいところ申し訳ございません」という言葉を「御忙シイ処ヲ申シ兼ネマス」という具合で、仮名遣いも古典文学に通じる文体です。

今の年齢でこそ興味を持って読み進めていますが、私の若い時代であったならば(古典の成績が悪かったことも重なって)知恵熱が出ていたでしょう。

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