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「ものづくり」と、今のわたしと、近くにある死に敬礼を。

良いことが起きてしまうと、その直後にこれは悪いことが起きる前兆なのだと考える癖がある。
昨日がまさにそうだった。初めての大きな会場で、というかどう生きてきたらこんなことが起きるんだという文化的な施設で。

ずっとちまちまと彫っていた消しゴムはんこの個展とワークショップをした。場所は東京オペラシティ。そんなことがあるのかという、びっくり仰天。
想像の何倍もの方が来てくれて、わたしに会いに来てくれる方もいて、数えきれないくらいの方の生きている手を見て、世界に一つの作品が産まれる瞬間に携わった。
さまざまな縁があって巡り巡ってこんな大舞台が来るとは思わなかったから、物理的にもそうだけど、多分心の方が追いついていなかった。ずっとソワソワしていて、予約システムとかもなかったから当日来てくれる人次第だったから、どれくらいの人が来てくれるかわからなくて、緊張していたんだなと気づいた。

結果は満員御礼で、参加希望の方をお断りしてしまうこともあって、希望に応えられないこともあって、それほどまでのことをしている自分がいることが。
なんかどこかで怖かった。
先生とか、お姉さんとか呼んでくれる子供たちや大人の方々。前に来てくれたのにまた来てくれて、わたしは覚えられていなかったのに覚えていてくれた子供たち。自分が情けなくて恥ずかしい。純粋な心で、目で、わたしの中を見てくれるから、逃げたかった。逃げたくて逃げたくて、でもその倍幸せだった。

帰りに大好きな後輩と飲んだ。その子はとてもしっかりしていて、だらしないわたしは振り回して無茶振りしたというのに、ずっとわたしの味方でいてくれて、誠実に向き合えなかったと反省した。忙しいのにわたしに時間を作ってくれたこと、本当に感謝しかない。そして、同じくらいごめんねって気持ちで、次どういう顔であったら良いかわからない。



もし自分に点数をつけるなら。
そんなことを世間ではする人がいるけれど、わたしだったらきっと、その前に、わたしという存在を消すと思う。消しゴムを何十個使ってでも消す。だから、ないものになるから、点数をつけることすらできなくなる。何度でも消して抹殺して、答え合わせができない状態にする。

やりたいことをやっていてすごいねとか、大変なことあるのに頑張ってるねとか、見ていると元気が出るよとか。多くの方に言われる。言ってもらえる。改まって自分の話をすると、恐れ多いことに本当に崇拝されがちで、それが苦しくて、本当のわたしはそこにいなくて、最近はもう人と関わるのをやめている。どの立場がって思われるかもしれないが、わたしは今、関わる人を思いっきり選んでいる。なんなら持ち物も選んでいる。好きなものしか買わない、好きな人としか会わない。

諦めたものに執着していた部分があった。正確には、「諦めたかったものたち」だ。好きな人に好きって思って欲しいなとか、仕事で成功したいなとか、夢のまた夢だと思っていた結婚とか、父と母と兄と笑い合いたかっただとか。
なんだかんだ、諦めたふりをしながら、なんだかんだ、求めている自分がいた。



最近、自分が何者かわからなくなる瞬間がある。

自分なのに自分じゃないと思う行動をする時がある。昨日のわたしはすごかった。

あんなに幸せで、あんなにまっすぐなありがとうを浴びて、あんなに暖かい空間を時間を過ごせたのに。そんなことが許される存在じゃないはずだとわたしは自分を殺すために、1人になった瞬間信じられないくらいのお金を注ぎ込んで酒を飲んで、散財をした。

レイプされたあの日から、自分の身体をどうでも良いと思っている。女である自分が心底嫌で、反して女である自分を認めたくて必死で気持ちが悪い。自ら自分の価値を落として自分をぶっ潰して、底辺にたたき落とさないと、幸せになってしまいそうで怖いのだと思う。わたしには幸せがあってはならない、愛されてはいけない、こんな汚いわたしを認められてしまってはいけない。自己愛に近い、自己嫌悪。度を超えてしまったそれは、もう呪いで、解けない。解けないし、溶かすこともできないくらいに冷たくて固い。

バカみたいだけど、バカなのだ。感情を思考と結びつけようとして、そこに発生するバグについていけていない。心で感じることに意味をつけようとする癖がある。直感でいいのだろう。思い返せば、一度たりとも自分の直感に理由なんてなかった。なかったのに。

ひとりで家で泣いた。思いっきり声を出して泣いた。赤ちゃんよりも大きな声で泣いた。親の前でも過去の恋人の前でもあんな姿になったことがないというほど、泣いた。
干からびるほど泣いて、日付を超える頃、泣き疲れてそのまま寝ていた。

わたしが性被害を受けたことを知った知人3名から、面白いことに説教を受けた。もうその3名とは縁を切ったのだけれど、わたしは冷静に「そっか」と3回思った。思った、諦めた。

いつまでウジウジしてるの?とか、世の中にはもっと大変な人がいるよとか、そんな相談するくらいなら可愛く誘ってこいよとか、なんか理解できないことをたくさん言われた。そっか、わたしが経験したことってそういう感じなんだと思って納得しようとしたけど、わたしは大切な友達が自分と同じ目にあったら、そんな言葉を浴びせる人がいたら、全力で殺す。ぶっ殺す。でも、わたしに対してされたことには変に納得しようとするところがあって、二度と関わらないと決めていても、その人たちから投げられた言葉、元となる経験はずっと残る。
わたしが親しいと思っていた人は、わたしを親しいとは思っていなかったのかもしれない。変に希望を持ってしまっていたわたしの勘違い。

もう、死ぬ以外なにもない。
死んでしまえたらと思うのに死なないのは、もうこれ以上ないくらい綺麗だと思う朝陽を、心の底から泣けるほどの光を、この目で見てみたいと思うから、それだけ。その瞬間に愛用のフィルムカメラでシャッターを切りたい、それだけ。福島に帰りたい、おばあちゃんのお墓の前で深くお辞儀をしたい、おばあちゃんのお墓を抱きしめたい。
それだけ。

それをしたあと、わたしは生きているのだろうか。生きることは素晴らしかった、なんて思うのだろうか。どちらでもよくて、ただその瞬間がくることだけを考えて生きている。
産み落とされただけの肉体に、勝手に育まれた感情に、経験したくないことをたくさんした身体。わたしは、疲れた。



今、本当の意味で自分をみつめなおして、自分を知ろうとしている実感がある。
手放すべき何かがわかる。捨てるものを捨てている。

愛が何かを知る前にこの身が朽ちても、後悔はない。終わりに向かって前へ進んでいくんだって、はじまりが確かにあったのかもしれないと穏やかに受け入れて、こんな文章を書きました。わたしは、長生きなんかしたくなくて、もうこれ以上を味わうくらいなら、今すぐにでも終止符を打ちたい。

生きていることに意味なんて求めていない。生きてくれなんて言われたくない。だから誰かに生きてとも言わない。でも、心が動くうちは、そして明日が来るのなら、まだ生きなきゃいけないのなら。

あとは会いたい人に会いに行きます。
見たい景色を見にいきます。
伝えたいことは、伝えます。
たとえそれが届かなくても一方通行でも、暖簾に腕押しでも、迷惑でもいい。それがいい。
すべてが本当の意味で終わった時、きちんと自由になりたい。楽になれたら良い。

ここまで来るのに時間がかかったし、天国も地獄もみた。まだ生きているうちに見れる天国があるかもしれないけれど、死んだらわたしは地獄に落ちるだろうから、遅かれ早かれ堕ちるなら、望む天国をこの目で耳で手で感じて散りたい。桜が咲いて散るように、綺麗なうちに、これ以上汚れないうちに消えたい。いい意味で、軽やかな気持ちなのです。

満ちていく。満たされていく。
愛を求めず、愛を知ろうとし、わかる優しさを分け与えたいと思っている自分が、嫌いじゃない。
失うことで分かったことがたくさんあったから、この人生は無駄ではなかった。
そう思い切れるまで、朝陽を求めて、光を求めて。

シャッターを切る旅に出ようと思います。

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