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「でんでらりゅうば」 第8話

 その夜のことだった。安莉は昼間の澄竜との接触に刺激を受けたのか、アパートに帰ってからは午後中ずっと書きものをして過ごした。今はまだ小説という形は成さないものの、頭に浮かぶアイデアをどんどん文章にしていると、時間はあっという間に過ぎていくのだった。
 そうして夢中になったあと、ふと気づけばもう夜の十一時半を過ぎていた。いけない、早くお風呂に入って寝なくては……。そう思い、浴室のほうへ行った。
 シャワーで済ませようかと思ったが、十月中旬の夜も更けたアパートのなかは冷えていた。考えてみると、ここに着いてからまだ一度も湯船に浸かっていない。たった今まで書きものをしていたせいで脳が興奮していてすぐに眠れそうもなかったし、気持ちをほぐすためにやはり湯船に浸かったほうがいいかもしれないと思った。
 お湯と水の蛇口を捻って、浴槽に適温の湯を溜める。脱衣所で服を脱いでいると、ふと浴室のほうが気になった。浴室の壁の上には、天井に近いところに小さな換気窓がある。縦二十㎝、横三十㎝ほどの曇りガラスが二枚まっているのだが、勿論今は閉めてある。その窓の外で、微かな物音がしたような気がしたのだ。

 ――まさか、動物――?

 今朝の澄竜の言葉を思い出した。このアパートは高台にある分、村よりも山に近い。山から動物が下りてくるというなら、この建物の周りを歩き回っている可能性は高い。これまではもっと早い時間にシャワーを浴びて寝てしまっていたので気づかなかったのだろうか。
 安莉は音を消すために蛇口を閉め、しばらくのあいだ、じっと耳を澄ませていた。野生動物と触れ合った経験は、これまでに一度もない。時間が時間であるし、怖さと好奇心とがないまぜになった気持ちのまま、かなり長いあいだ息を殺して様子をうかがっていたが、窓の外からはもう二度と音は聞こえてこなかった。
 静寂のなか、ほっとして、換気窓に手を伸ばして開けてみた、そのときだった。

 窓を開けた途端、窓枠一杯に大きな顔が張りついていて、暗闇に二つの目だけが光っていた。その瞳は野生動物さながらに獰猛さを秘めていたけれど、夜闇に見る動物の目のように金色に光ってはいなかった。
 ――その目には瞳がなく、眼球全体を塗り潰したように真っ赤だった。まるで目玉をえぐり取られたかのような、鮮血のような赤だった。


 
 ――次の日、安莉は浴室で気を失っているところを助けられた。出勤の時刻になっても現れないので世話役の阿畑のところに連絡が行き、下の村の振興局で仕事をしていた阿畑が車を飛ばして山を上ってきて、アパートの鍵を開けてなかに入って安莉を発見したのだった。安莉は気を失って倒れたとき怪我をしたらしく、左側頭と左の太腿に裂傷を負って血が出ていた。幸い傷は浅く出血もすぐに止まったが、念のためにと阿畑が下の村にある病院に連れて行ってくれた。
 さまざまな検査をしてひとまず異常なしと診断され、本人も何も症状を訴えなかったため、その日の内に村へ戻ってきた。夜になると熱が出たが、怪我による発熱に加え、半裸の状態でひと晩中窓の開いた浴室に倒れていたせいで、風邪をひいたらしかった。

 安莉はその日からしばらくのあいだ、郷の駅の仕事を休むことになった。
「安莉さん、災難じゃったなあ」
 みつかつを始め、村人たちは代わる代わるアパートを訪ねてきた。そのなかには阿畑もいて、今週末に予定されていた歓迎会を中止することにしたと告げた。
「残念です、村の皆に安莉さんを顔見せして、きちんとお迎えしようと思っとったとですが……」
「仕方なかとよ。こげん怪我をしとらすとに」
 砥石といし家の長男の嫁、まさが横から口を出して言った。
「安莉さん、しっかり養生して、早く元気にならなんとよ。うちら皆で心配しとるけん」
 優しい声で、見舞いに持ってきた柿を剥きながら昌は言った。

 それからというもの、まるで巡礼か何かのように、村人たちは続々と安莉の部屋を来訪し始めた。雇用という名目で来ているとはいえ、自分たちの村のなかで怪我を負わせてしまったことを人々は気に病んでいるようだった。そして歓迎会が中止になったことで安莉の姿を見る機会を失ってしまった畑仕事に従事している人々は、療養する安莉の様子を見にきては、ジロジロとこちらの気分が悪くなるほどねめつけていくのだった。
「ほんなこつ、安莉さんは別嬪さんたいね」
「こげん人がこん村に来てくるっとはね」
 村人たちは、口々にそんなことを言った。
 連日、あまりにも色々な人が訪れるので、ほとんど村のすべての人が見舞いに来たのではないかと思われるほどだった。特に女たちは甲斐甲斐しく安莉の世話をし、
「出てない日の分も給料はちゃんともらえるけんって世話役さんが言よったけん、何も心配せんでゆっくり休んどってよかよ」
「ほんなこつ、えらい目にうたなあ」
 などと、食事や果物を運んできてくれる度に、そんなことを言って安莉をいたわってくれた。

 けれど不思議なことに決して村人の誰も、あの赤い目のことについては言及しないのだった。換気窓に赤い目の気味の悪いものが見えたと言う安莉の話は誰にも取り合ってもらえず、「獣じゃろ」と片づけられた。かろうじて満だけが、怯えたような目をして「あんた、鵺を見たとやなかろか」と言った。

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