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【長編小説】 初夏の追想 21

 パタン、と、扉が閉まった瞬間から、その部屋には私と守弥の二人きりになった。部屋の中は閉め切られている上、照明の熱によって暑苦しく、この盛夏の時期にはじっとしているだけでも汗がにじみ出てくるようだった。
 私は背中に汗が伝い落ちるのを感じながら、部屋の中央に守弥を歩み出させた。
 私が手を放すと同時に、彼はへなへなとその場に崩れ落ちた。彼の体は嘘のように軽く、抵抗といったものがまったくなくて、まるでゴム人形のようだった。私は彼の隣に座り、彼の体を抱きかかえるようにして座らせた。そして彼に、目の前にある絵を見るように促した。
「ほら、ご覧、守弥……。ゴッホだよ」
 守弥は最初、私の声に何の反応も示さなかった。が、降り注いだ雨が土の中に徐々に浸透していくように、いくらかの時間を経て、私の言葉は彼の耳の中に染み込んでいったようだった。
 守弥は、ゆっくりと顔を上げた。そして、彼の目の前にあるゴッホの絵に視線を合わせた。それは、有名だといえばあまりにも有名な、あのひまわりの絵だった。
「……ほら、よく見てごらん。よく一緒に話した、あのひまわりだよ。覚えてるかい? ゴッホは、このほかにも何点かのひまわりの絵を描いている。当時彼は、アルルで「黄色い家」と呼ばれていた家を借りて、そこを芸術家の共同生活の場にすることを夢見ていた。この黄色い花瓶は「黄色い家」を表し、花瓶の中のひまわりは、彼がそこで共同生活をするべきと考えていた画家たちを意味しているんだ……」
 守弥はその絵を見ながら、放心したように坐り続けていた。だがそのとき、なぜか私は、彼が話に耳を傾けているのがわかるような気がした。
 そのことによって勢いを得た私は、次々に色々な画家たちの話をし始めた。ドガ、シスレー、ピサロにセザンヌ……。守弥は相変わらずこちらに無関心のように見えたが、彼の目は段々とあのぼんやりした虚ろな色を変え、元の輝きを取り戻していくように見えた。
 私はさらに、彼をほかの絵の前にも連れて行き、その絵の解説をした。
 信じられないことだが、そうするうちに、守弥の目は焦点を結び、物事の核心を捉えるような光を帯びてきた。彼は私の話に耳を傾け、ときどきはこちらを向いてうなづくことさえあった。
 そのとき私たちは、ベルギーの超現実主義シュールレアリズムの画家、マグリットの絵の前にいた。
 守弥はじっとその絵を見ていた。波打ち際からの視点で描かれた海の上、虚空にぽっかりと浮かんだ巨大な岩、そしてその上にそびえ立つ城……。『ピレネーの城』という作品だ。
 ……ふと、守弥がかすれた声で呟いた。
「楠さん……。前に話してくれたよね。マグリットの絵は、人を混乱させるために描かれたんだ、って……。風変わりな画家だったマグリットは、常識にわざと刃向かうような発想で絵を描いたんだって。そう、彼の絵は、〝からくり〟みたいなものだって言ったね……」
「そうだね」
 彼が言葉を発してくれたのが嬉しくて、私は力強く答えた。
「……僕はずっと、自分で作り出した〝からくり〟に囚われていたような気がする……」
 守弥は言った。そして、苦しんできた長い歳月を虚しく想うように、深い溜息をひとつついた。
「そうだよ守弥。これまで君は、ひとりで苦しんできた。でもそれは全部、この絵のような〝からくり〟に過ぎなかったんだ。君はもう、そんなものに囚われなくていいんだよ!」
 私は叫んでいた。もしかしたら根本的なところで彼を救えるかもしれない。私の心に希望の灯りがともった。
 守弥は続いて、ミレーやルーベンス、マティス、ルノアール、そしてエドワード・ホッパーの絵を、沈黙のうちに見つめた。このとき、十九世紀から二十世紀にかけてのヨーロッパとアメリカの絵画の歴史が、彼の心の中を一気に駆け抜けていったに違いない。それは私の狙ったことでもあった。かつて語り合った事柄を時系列で辿っていけば、あるいは彼の魂に何か訴えかけることができるのではないかと思ったのだ。
 
 
 ――密閉された部屋の中の、静謐せいひつな薄暗い空間で、守弥はただ黙って一心に絵を見つめ続けていた。彼は立ち上がり、何度も何度もこの小さな部屋の中を歩き回り、ときには近くに寄って、またときには遠く離れて、めつすがめつ絵画に見入っているのだった。
 私はそんな彼を、ただじっと見守っていた。何も言葉はかけなかった。いま彼の中では、固い結び目のようだった何かがほどけ、新たな感性の芽が吹き出そうとしているのだ。そして、それが取りも直さず彼をいまの悲惨な状態から救い上げることのできる唯一のものであることが、私にはわかっていた。
 
 
 
 ―ー――永遠とも思えるほどの長い時間が過ぎ、夜が白々と明け始めた。漆黒の闇の中で一枚のごく薄い膜ががれるようにして、朝が訪れた。たれどきの夢と現実の交錯する幻の中で、私はうとうとと眠っていたらしい。
 ――私たちの頭の上の、もっとずっと上の高いところに、水晶でできた何本もの長い柱が見えた。あまりにも長いので、どこまで続いているのかここからはわからない。上のほうは、宇宙の色のように暗く閉じて、吸い込まれるように消えていた。水晶の柱は、神秘的な美しい藍色をしていた。目を閉じているにもかかわらず、私にはそれが見えた。
 

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