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【長編小説】 異端児ヴィンス 3

 「……両親のことを気にかけてるなんて言っている間はさ、君、結局誰も自立できていないってことなんだよ」
 トバイアスは言った。サンドラが帰った後、入れ替わるように彼女のいた席に座った彼は、大きな目を充血させながら、一杯目のエールを飲んでいた。
 褐色の細面の顔に、きつい天然パーマの髪を短く刈り込んだトバイアスはカリブ海に浮かぶ島国、トリニダード・トバゴ出身の26歳。モントリオールに来てまだ3ヶ月ということだった。世界各地からの人々がそれぞれの文化的特徴を保ったまま整然と共存しているという意味で、〝人種のるつぼ〟ならぬ〝人種のサラダ〟と呼ばれるこの街には、中南米からの移民も多い。
 トバイアスはこのところ毎日のようにデュー・デュ・シエルに通い詰めている。ひと目見て彼が何らかの理由によってひどいストレスを受けていることは明らかだった。それは彼のガール・フレンドによるものか、彼が生業なりわいにしているスーパーの袋詰め係の仕事に関連したものか、それともそれ以外のほかの理由によるものかはわからなかったが、彼自身が口火を切ってそのことを打ち明けない限り、誰もそれに触れようとはしなかった。もしかしたら触れられたくないかもしれないデリケートな部分にわざわざ切り込んで詮索せんさくするようなことをしないのが、ここの人々の間に無意識に流れている不文律であり、思い遣りであった。
 「いいかい、君の両親が君のことを心配している。君のことを心配している両親を、重いと感じながら君が気にかけている。そういう状態でお互いがお互いの心を縛り合っているとしたら、それは悪循環以外の何ものでもないんじゃないかな。そんな状態でいったい誰に何ができるっていうんだい? それに、君の両親には、君のことを心配する以外に人生においてするべきことは本当に何もないっていうのかい?」
 トバイアスは早口でまくし立て始める。アルコールが回ってきたときの彼の癖のひとつだ。
「それは全くごもっともよ。あなたの言う通り。でもね、日本という国はちょっと難しいの、こことは違うのよ。特に、親と子の関係という点ではね……。いつも私はここの人たちに説明しなきゃならないんだけど、日本における親子関係の緊密さと複雑さについて、本当に理解してくれる人は誰もいないわ」
 私は言った。
「親子関係における緊密さと複雑さ……? 難しい言葉を使っちゃって、何だよそれ? それって……、親と子の絆みたいなものかい? それなら僕にだってわかると思うけど。故郷に暮らしてる父と母とは僕は定期的にしっかり連絡を取り合っているし、お互いがどんな生活をしているかよくわかってる。そりゃあ時々おせっかいだな、なんて感じることもあるけどさ。トリニダードの親は、寛大だよ。そして愛情に満ちている。……君が言っている緊密さと複雑さって、つまりそういうことかい?」
 私は失望して、彼に向かって肩をすくめて見せた。彼の両親に対するスタンスは、複雑どころか単純明快だった。
 この肩をすくめるという動作は、私がカナダに来て一番使っている動作かもしれなかった。それはあるときは「お前わかってない」と諦めるような意味合いを出すこともあるけれど、おおむね「まあ、ね」と肯定的要素を含んだ曖昧さを表すジェスチュアになるからだ。
 私はまだ失望したまま、視線を横にいるトバイアスから外して正面のカウンターの中に移した。そこではマスターのマルテンと、バイトのコロコロ太ったパトリックが忙しそうに立ち働いていた。ここは人気のパブなので、従業員がゆったりと腰かけて息をついている暇などいっときもない。
 私はじっとパトリックのぽっちゃりした体躯を見つめていた。彼はまだとても若く、二十代前半の大学生。モントリオールのダウンタウンにあるコンコルディア大の二年生だと言っていた。太ってはいるが、愛嬌のある顔立ちで、眼鏡をかけている様が何とも可愛い。そして性格も温厚で話しやすいので、パブに来る客たちからも可愛がられていた。彼をこき使うのは主のマルテンだけで、マルテンがあまりにも彼を働かせすぎると女性客たちからブーイングが出ることもあった。
 パトリックは私と目が合うと、いつものキュートな笑顔でにっこりと笑いかけた。営業スマイルとはとても思えないその天然の笑顔が、一瞬私の気持ちを和ませる。ありがとう。あなたがここにいてくれて嬉しい。本気でそう思う。
 でも、その彼に同じ話をしたとしても、やはり理解してはくれないだろう。私は急激に悲しくなる。やはり、彼らにはわからない。日本人の親の、子どもの愛し方を。愛するがゆえに、或いは愛し方を知らないがために、子どもの芯をその手にしっかりと握り、決して離そうとしない、ほとんどエゴイスティックなまでの、閉塞的な愛情のことを。
 
 
 モントリオールに来る前、私は海辺の小さな集落で、小さな商店を営む両親とともに暮らしていた。そこは私の生まれ育った町、エメラルドグリーンに輝く海に面した、漁業の盛んなのんびりとした田舎である。
 私はまだとても若くて、人生のことなどこれっぽっちもわかってはいなかった。そのくせ生来の考え過ぎる性格が災いして、いかなる単純なことも自らひどく入り組んだ繁雑なものに転換してしまい、結果自分の首を締め付けるという愚行を繰り返していた。
 人生を確立するというにはまだ幼すぎた私は、悪いことに結局自分の人生はいつまでも両親の掌中にあると思い込んでいた(笑ってはいけない。これは非常に無意味ではあるが、真剣に考慮されるべき危険な考えなのだ)。
 その日、ゴミ収拾所に不要品を捨てに行って帰ってくると、店の裏手で母とタツ子おばちゃんが話をしていた。母は秋口になり再び咲き乱れるようになった花々をいじり、タツ子おばちゃんは昨日作った料理の話をしていた。……何とかに、野菜を入れて、云々……。
 何という平和でのどかな光景だろう。十月の初旬だというのに、この町にはまるで世界じゅうから選りすぐりに選ばれた桃源郷の候補地のように、温かな太陽の光が降り注ぎ、このまま未来永劫永遠の平和を享受せよとそそのかしているかのようだった。
 そのとき突然、私は自分がその〝和〟のなかにまったく属していないということに気づいて、戦慄を覚えた。「属していない」どころではなく、無自覚にそこに存在していたがために、むしろそこにある調和を乱していたと言ってもいいほどだった。それはいつものように私を戸惑わせ、ここにいる自分が間違っているとでもいったような、ほとんどやるせない気持ちを抱かせた。
 ここにいる自分、自ら選び取る人生になかなかその一歩を踏み出せずにいる自分に猛烈に腹を立てながら、それでもなお現実に一歩を踏み出すことに怖気おじけを振るって躊躇ちゅうちょし、結局何もできずにその場に立ち止まったままでいる自分に、限りない嫌悪感を覚えた。
 その日々、私の頭の中では嵐が巻き起こり、静まり、そして刻々と満ちてくる潮のような、辛い、質の悪い涙が込み上げていた。
 私は自分の考えをすべて押し殺ボトル・アップし、自分で自分の首を締め上げていた。それはとても辛いことだった。私は何人もの占い師を渡り歩き、彼らの言うことに深刻に耳を傾けた。ある占い師は、「あなたは何の不自由もなく幸せな人生を送るでしょう。衣食住に困ることはありません」と言い、またほかの占い師は、「あなたはいまストレスでいっぱいで、周囲との調和が取れない状態に陥っています。自分から何かを打ち破る勇気を出さなければ、この先もずっと同じ状態が続くでしょう」と言った。
 占いの結果にさえも私はうろたえ、右往左往し、そしてますます自分で自分の行く先を選び取っていくことなどできないという風に感じるのだった。
 まさに八方塞がり。そしてそれを自分の手で招いているのだから、実に始末が悪い。
 そのころの私は、まるで自分で自分を少しずつ殺そうとしているに等しかった。自分の人生を投げ、それを人の手にゆだねてすっかり諦めてしまおうとしかけていた。
 ――モントリオールに渡ったことは、ある意味では良かったし、ある意味では悪くもあった。私はあんなにも苦しんでいた両親とのしがらみからひとまずは抜け出ることができたし、わずかながらではありこそすれ、自分らしきものの基準を確立したという感覚を得るに至り、ようやく精神の安定を得ることができた。悪い点はといえば、ここでは自分をより上手く表現できる人がより勝者となり得るので、卵の殻からようやく出てきたばかりの雛鳥ひなどりのような私などは、どんなに頑張ってみても、所詮周りにひしめくエンターテイナーたちの相手ではないことを思い知ったことだった。
 中世の時代、ヨーロッパにおいては〝子ども〟という意識がなかったという。今で言う子ども、すなわち成人していない未熟な幼年者たちは、単に体の小さな大人・・・・・・・という認識で、社会で扱われていた。そういうことだから、商売や製造業、肉体労働などもいっぱしの大人並みにやらされていたそうだ。近代社会と呼ばれる時代を迎えてからも、いわんやよちよち歩きの幼児期のころから、自分は何を求めるか、何を欲するか、どう思うかどうしたらいいと考えているか、などということを大人に向かって対等に自分の言葉で伝えることを要求される。母親と三歳児のあいだでも、勿論母親から注がれる無条件の愛というのは存在するが、それにしてもお互いの関係は、あくまでも〝個〟と〝個〟のセッションなのである。
 日本における、やれ可愛いそれ可愛いとちやほやもてはやされて過ぎていく幼児期に比べれば、何と謹厳な成長過程だろう。
 親のせいにばかりするつもりはないが、とにかくそういったわけで、案の定、私は周囲からは、よくいるシャイなジャパニーズガールという印象を持たれていたようだ。友人が招いてくれたあるパーティーでは、なるべく社交的に振る舞おうと努力していたにもかかわらず、隣に来て会話を交わしたモントリオールッ子が、わざわざ「もっと自己表現をしなくちゃダメよ」とアドバイスをしてくれたこともあった。パーティーを途中で抜け出し、「このあと、クラブに踊りに行くの」とセクシーな衣装で元気に跳ねて見せた彼女はとても若くて可愛くて、私の目にはキラキラとまぶしかった。
 まあでも、そんなことは後ではどうでもよくなったのだが。モントリオールで幾月か過ごして、だいぶ開き直れるようになってきたころ、ある瞬間に、思い至ったのだった。私は元々人前での自己表現能力というものについては、欠陥を持って生まれているのだ。それを今更突然どうこうしようなどと考えても、時間の無駄というものだ。モントリオールという街が、それを教えてくれた。そしてこの街では、そういった人間でも、胸を張って存在していていいのだということも。ここは国際都市であり、世界じゅうからやって来た人々で成り立っている。無論皆が皆いい人間であるというわけはなく、見るからにタチの悪そうな人物も、無数に暮らしている。――でも、小さな田舎町とは違って、いくら毛色が違って素行が悪そうに見えるからといっても、皆で寄ってたかって彼らを排除しようとするような動きは起こらない。都市は、すべての人々を包容している。ただ自分でいるだけで、この街はそこに存在することを許してくれるのだ。
 日本にいたころ、私は両親の従順な娘を演じなければならなかった。もしくは、社会の一般に期待するイメージどおりの〝娘〟像をあてがわれ、その枠に収まることに満足を覚えなければならなかった。私自身がそれに例えようもない閉塞感を感じて、どうにかしたいと心の内で念じていたとしても、誰もそんなことには気づかないし、第一〝娘〟が社会が要求する〝娘〟像に即していないことがあるなどという状況を、誰も想像することさえできなかったのだ。
 心の中で上げ続ける悲鳴は日増しに声量を上げていったけれど、外側に出るのはただ不機嫌そうに気難しく凝り固まった表情だけ。私は自分の本当の中身を表現するということを、極端に恐れていた。なぜならそれが今目の前にある社会からは簡単に弾き飛ばされる類のものであるということを、誰よりもよく知っていたから。私は自分を拒絶されるということが怖かった。それで、自分はこの社会に相容れないという意識だけが次第に募って、必要以上に自分の殻に閉じこもる生活を続けるようになったのだった。
 
 感情の密封ボトリング・アップ
 
 もしかしたらこの言葉は、私が生涯持ち続けていくものなのかもしれない。そして最期の時が来るまでに、この問題を解決できるのかどうかも、私にはわからない。

 人は誰でも、心の奥に(もしくは隅に)闇を持っている。


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