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【エッセイ】 書くことについて

自分にとって文章を書くこととは何だろうか、と考えてみた。

私は、なぜか切なくなったり、哀しい気分の時に文章を書きたくなるようだ。

たまに、「書きたい!」という衝動に駆られる時、そんな時はいつも、自分と外の世界とがうまくかみ合ってないとか、違和感を感じたり、納得がいかないと思っている状態である気がする。

そういう〝負のベクトル〟に向かう時の心のいたみのようなものを、紙面やPCのモニター上にしたたらせることによって、自分で自分を癒そうとしているのかもしれない。

――実を言うと、文字を書くことは、私にとってはストレスのひとつだ。私は字が下手だし(どんなに丁寧に書こうとしても、どうしても美しい文字を書くことが出来ない)、後から自分の書いた文字を見返す時には、いつも惨憺さんたんたる思いがする。

それでも、時々無性に文字が書きたくなる。――私の場合、それは構文を考えたり全体的に考えを伝えようとすることよりも(かなりマニアックかもしれないが)、文字を書く、文章を書くことに対して物理的刺激を求めるということの方が先に立っている気がする。そこが自分の〝変な〟ところだとは思うのだが、本当に好きだから仕方がない。

修正が可能だという点で私はシャープペンシルを使うことが多いが、シャープペンシルが紙の上に食い込んでいく感触、紙の上を滑る時の感触、消しゴムを使って文字を消す時の摩擦する感触、そういったものを私は愛している。と言いながら、PCで文章を書く時にキーを叩く音も、また好きだ。文章を吟味したり推敲したりする楽しみ(苦しみ?(笑))は、そのもうちょっと先にある。

だが、書き上げた文章を見返すのも結構好きだ。黒い(時には違う色のこともあるけれど)ひとかたまりになったテクストを改めて眺める時、自己満足というものかもしれないけれど、ちょっとした達成感を感じる。
それは、この30分~1時間をかけて自分なりに生み出した、知的労働の成果なのだと。

そして書かれた文章は、保存状態が良ければ、かなり長い間残る
今日、今のこの時間に真剣に考えたことを、記録し留めて、何年か後の、そんなことを考えていたというのも忘れたような頃に、再び見出したりすることも出来る。
私は文章の持つこの保存性の力を好む。

それから、もちろん、言葉そのものの持つ〝力〟
それは自分自身に対してや、ある特定の人や多くの見知らぬ人に対してさえも、大きな作用を及ぼす時には、それが直接的に持っている以上の意味を持って力を発揮する。
言霊というものは、確実に存在すると私は信じている。
だから私は本来一字一句をおろそかにしたくないし、使う漢字にもこだわりたい。象形文字を起源とする漢字は、日本語において表現する時にとても大切だと思うからだ。

こうやって文章を書くということは、私のたのしみだ。多分、朝から晩まで書いていていいと言われれば、いつまでだって書き続けているのではないだろうか。

〝書く〟という動作、その為の道具、その間の時間、書き上げたもの、
書き上げたものを見ること、読み返すこと、

その全てが好きだ。

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