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【長編小説】 初夏の追想 8

 それから一週間ほどあとのことだった。私は午前中、居間で読書をして過ごしていた。祖父は、食料品や画材の買い出しに街まで出かけていて留守だった。
 不意に、玄関のチャイムが鳴った。
 私は、ある期待のような感情を胸に、ドアを開けた。すると、やはり予想通りの人物がそこには立っていた。
 それは、先週の朝の、あの少年だった。
 彼は、今朝は最初からまっすぐ私を見つめていた。彼の瞳の中に、自分を認識している人間の証拠とも言える強い光を確認して、私はほっとした。
「おはようございます」
 彼は、快活な声でそう言った。
「先週、向かいの別荘に来ました、犬塚という者です」
 そして、荷解きに手間取って、なかなか挨拶に来られなかったことをびた。
 彼は、どう見ても十四、五歳ぐらいにしか見えなかった。私は、このようにきちんと挨拶することのできる子供を、それまで一度も見たことがなかった。よほどしつけのいい家庭で育ったのに違いない。
 少年は、手にしていた紙袋を、つまらないものですがと言って差し出した。その中には、祖父の好物の羊羹が入っていた。
「祖父は今日、街に買い物に出ていまして……。私はしばらく前からここに滞在している孫です。どうぞよろしく」
 気がつけば、私は一人前の大人に接するようなやり方で彼に挨拶をしていた。けれどそれが不自然にならないくらい、彼の態度とたたずまいはきちんとしていたのだった。
「……良かったら、少しお茶でも飲んで行きませんか?」
 と、私は彼を部屋に招き入れようとした。何とかして、あの朝のことを話して欲しいと思ったし、それに、祖父以外の人に会うのは久しぶりだったので、会話する相手に餓えていたというのもあった。
「え……、でも……」
 彼は遠慮がちに言った。祖父の留守のあいだに勝手に上がり込んでいいものか、考えている風であった。
「いや、都合が悪ければ、別に……。でも、少し話でもしていれば、祖父ももうじき戻ってくると思うので……」
 少し強引に、私は言った。この少年ともう少し話したいと思っていた。
「そうですか……。では、少しだけ、お邪魔させていただきましょうか……」
 彼は、まだ少し遠慮がちにそう言うと、玄関に上がり、私のあとについて居間に入った。
 部屋のテーブルの上には、私がさっきまで読んでいた西洋絵画に関する本が開いたままになっていた。それは大判の装飾本で、開かれたページには、ゴーギャンの「白い馬」が、鮮やかな色刷りで掲載されていた。
 それは、すぐ彼の目に留まったらしかった。途端に彼は目を輝かせた。
「これは、綺麗な本ですね。……実は僕、絵を勉強しているんですよ」
 彼はそう言って、本に近づいていった。
「本当かい? じゃあ、お茶を入れるあいだ、それを眺めていてくれたらいい」
 私は急に年少者に対する物言いができるようになっていた。そして、そのことをおかしく思いながら、お茶の用意をしに台所のほうへ行った。
 二人分の緑茶を入れて、お茶菓子を添えた盆を持って戻ってくると、彼は熱心にその本を読みふけっているところだった。
 私は彼のかたわらに行って座り、彼の開いているページを見た。
 彼はいま、十九世紀末のフランスの画家について書かれているところを読んでいた。そこには、モネ、ルノワール、ドガ、セザンヌなど、世界的に有名な画家たちが、何に興味を持ち、どのような方向から彼らの芸術を探究していったかが解説されていた。
「印象派に興味があるのかい?」
 私は聞いた。私自身も、印象派と呼ばれる画家たちの作品が好きだった。
「ええ。でも、十九世紀末から二十世紀初頭の画家たちは、だいたい好きですね。特に僕は、ゴッホ、ゴーギャンの絵が好きです。それぞれにとてもドラマティックな人生を歩んでいますしね……。お互いに親交があったというのも、面白いですし。ねえ、当時のヨーロッパの画家たちというのは、本当に波乱万丈の人生を送っていたと思いませんか?」
「確かに、そうだね。現代と違って、ヨーロッパの政情はいつも不安定だったし、宗教や階級的な問題もまだ色濃くあった。芸術を追及するためには、いまよりも乗り越えなければならない試練が沢山あっただろうね」
 私は、彼の言ったことに感心しながら応えた。彼の物言いは、少年とは思えないほど明朗でしっかりしていた。
「ねえ、ゴーギャンは、絵描きになるために、安定した豊かな生活を捨てたんですよ。すごいなあ……。そんなことって、考えることはあっても、実際にはなかなかできることじゃないですよね」
 彼は顔を輝かせながら続けるのだった。
「君は、よほど絵画が好きなんだねえ……」
 私は、思いがけないところで同類を見つけたような気がして、突然嬉しくなった。そして、それから、彼に幾つかの意見を問うてみた。すると彼は、どんな質問に対しても、言いよどむことなく、自分の好みや持っている考えをはっきりとした口調で答えるのだった。
 私はすっかり感激していた。そして、彼を引き止めて話をして本当に良かったと思った。そして、この無為な隠遁いんとん生活に見切りをつけることができそうな予感がして、心躍らせた。
 私たちは、時を忘れて話し合った。話があまりにも盛り上がったので、私はあの朝のことを尋ねるのをすっかり忘れてしまった。
 彼の名は犬塚守弥いぬづかもりやといい、将来画家になることを夢見ていた。
 幼いころから油絵を習い始め、何度か小さな美術展にも出品したことがあるという。しかも、そこで運良くある高名な画家に認められて、来年の春にはパリに留学できるかもしれないということになっている、と少年は言った。

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