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【長編小説】 初夏の追想 25

 ――今朝のことである。私はこの屋敷に到着してから初めての来客を迎えた。
 昨夜その人のことを書いたばかりなので、言霊ことだまが呼んだとでもいうのだろうか、玄関の呼び鈴が鳴ったのに驚いて出て行くと、扉の向こうに立っていたのは、何と篠田その人であった。
 「ご無沙汰しています」
 屋敷に上がりながら、篠田は紳士らしい仕草で、被っていたパナマ帽を脱いだ。いまでもこの土地に別荘を所有している数少ない人士の一人である彼は、噂に私がこの建物を買ったことを聞いたという。
 思いがけない来客にあたふたして台所に走り込む私の様子を、鷹揚おうような態度で見守りながら、彼は感慨深げに辺りを見回していた。
 
 
 「……実は、犬塚守弥君の使いでうかがったのです」
 客間のソファに腰かけ、篠田は言った。彼がそこに座っていると、あの三十年前の夏の日々が、そのまま再現されているような気がされた。けれどいま、彼の顔には深い皺が刻まれ、私と同じように髪に白いものが目立っていた。それにかつての気迫に満ちた力強さがなく、うつむきがちで、しんみりしたような様子でいるのが気になった。
 彼も歳を取ったということだろうか。そう思った。
 
 それでも篠田の来訪は、私に再びこの土地での、あの日々への強い想いを惹起じゃっきさせるのだった。彼がそこにそうしているというだけで、私は思わず涙ぐみそうになった。
「彼がいま、フランスにいるということはご存知ですね?」
 お茶をひと口飲んだあと、篠田は言った。
「ええ、聞き及んでいます。現役の頃に、柿本君と会う機会がありましてね。あちらで画家として研鑽けんさんを積んでいるそうですね」
 私は言った。
「柿本君ですか。彼も彼らしい、いい画家になりました」
 篠田は薄く微笑みながら、満足げに何度もうなづいた。
 私は不意に、大昔、そう、三十年前のあのときに柿本から聞いたことを確かめてみたくなった。今日こうして何くわぬ顔をして訪ねて来た用件は、守弥の使いだと篠田は言った。
 私は思い切って質問することにした。
「失礼……失礼は承知で、是非伺いたいことがあるのですが…」
 何度も咳払いして、ようやく言った。
「何でしょう?」
 私の態度に、心から不思議そうな顔をして、篠田は聞き返した。
「その……昔……、ある噂を耳にしたのです。……あなたと犬塚夫人が、その……ただならぬ関係であったという……。それはもう、確かに大昔の話なのかもしれません。いまさら蒸し返すたぐいの話でもないのかもしれません。……けれど……、私には、どうもに落ちないところがありまして……」
 すると、篠田の目に一瞬、何かがひらめいた。彼の顔に、思わせぶりな苦笑いが広がっていった。
「お悩みを広げさせて、申し訳ありませんでした」
 彼は目をおおって下を向いた。とても慎ましやかな仕草だった。
「彼女と関係を持っている……確かにそう思われていたほうが、私には都合のいい部分はありました。……私は同性愛者なのです。私のような人間に風当たりの強い時代だった当時、彼女は私を守ろうとしてくれていました。犬塚夫人と私は、互いに馴れ合ったように見せかけ、周囲がそう思うに任せておいたのです。……結果として、守弥君に負担をかけることにはなってしまったのですが。……噂や人の思い込みといったものを綺麗に払拭するというのは簡単なことではありません」
 彼には犬塚夫人よりも古くからの付き合いであるパートナーがいたという。
 私は、長年疑いの目で見ていたことを、篠田にびた。彼は首を振り、そんなことはかまわない、けれど……自分は守弥に対していまも罪悪感のようなものを持ち続けている、と言った。だからこの先も、公私ともに彼の力になってやりたいと思っている、と。
「守弥君のことですが……」
 気を取り直すように、篠田は話を戻した。
「向こうでよくやっているようですよ。私も画商仲間から情報を得ているのですがね、少し大袈裟な言い方になるかもしれないが、藤田嗣治フジタツグハルの再来だと言う向きもあるとか……」
「そいつはすごい!」
「もちろん画風は異なりますがね。守弥君ならではのオリジナリティーが色濃く出ていますよ。……彼はひところひどくゴーギャンに傾倒していたものでしたが、いまとなればあれは何かのカモフラージュだったのではないかとさえ思えてきます……。本当の自己を隠すためのね。……最近の彼の作品をご覧になったことはありますか?」
 篠田が聞いた。
「いえ、残念ながら……。現役を引退してからというもの、展覧会といったものとは縁遠くなってしまいまして。守弥君は、すでに個展を開いているのですか?」
「その話なのですが」
 篠田は身を乗り出した。
 来月、守弥の日本での初めての個展が、東京の美術館で開かれることになった。その招待を兼ねて、篠田は私を訪問したのだという。
「守弥君も帰国する予定です。その際に、是非楠さんにお会いしたいそうで。そのことを伝えて欲しいと頼まれて来たのです」
 招待状をジャケットの内ポケットから取り出し、テーブルの上に置きながら篠田は言った。
「……それは、楽しみですね。お母様もさぞお喜びでしょう。犬塚夫人はお元気にされているのですか?」
 私の脳裏には、あのバルコニーで別れたときの彼女の美しい姿が浮かんでいた。
 私の言葉を引き取ると、しかし篠田はぴたりと動きを止めた。視線が右と左に行き来し、その顔には神妙な、何か含みのあるような表情が浮かんでいた。
「守弥君は、あなたに話したいことが沢山あると言っていました」
 私の質問には答えずに、篠田はぽつりと独り言でも言うかのように呟いた。
「……それと、これを……。忘れないうちに」
 そして今度はたずさえて来た革鞄の中からA4サイズの白い封筒を出して、滑らせるように私のほうへ差し出した。
「何ですか」
 私は眼鏡を取り出してかけ、封筒に印字されてある小さな文字を読んだ。
 
 ――そこには、DNA検査機関の名称があった。
 
 封筒には、ほかに幾つかの書類とチャック式のビニール袋が入っていた。それは鑑定の申込書のコピーと返送用の封筒、DNAを採取可能な資料を入れるための袋であった。
 
 乞われるままに、私は、祖父が住んでいたあの離れに立ち戻り、祖父のDNAを採取することのできる物を探した。
 
 祖父が亡くなって以来、同じようにその建物もそのままの姿でのこされていた。祖父は私が山を降りてから二年後、犬塚家の別荘の庭で倒れているところを、巡回に来た管理人によって発見されたのだった。死因は心臓発作であった。
 離れの建物に戻るのは、私にとって感慨深いものがあった。あの夏起きた出来事が、これまでになく鮮明に脳裏に甦ってきた。
 私は祖父の暮らしていたスペースをあれこれと調べた。室内もまた祖父が暮らしていた当時のまま遺されてあったから、私の目的とするものは案外と容易に見つけられた。
 洗面所の鏡の横の開きから、祖父が使っていた歯ブラシを見つけた。出かけるときにいつも祖父が被っていた帽子の内側から、数本の毛髪を採取することができた。私はそれらをビニール袋に入れて持ち帰ると、検査機関に送った。

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