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映画『箱男』感想 理解不能な世界の完全再現

 この理解出来ない不安感による快感、完全に安部公房作品でした。映画『箱男』感想です。

 都会の片隅にある1つのダンボール箱。それは、完全な孤立、完全な孤独を得て、社会を自ら断絶し、一方的に世界を覗いて観察し続ける“箱男”という存在だった。カメラマンの“わたし”(永瀬正敏)は、偶然目にした箱男に心を奪われ、自らもダンボールを被り箱男としての一歩を踏み出す。だが、箱男をつけ狙う贋医者(浅野忠信)による銃撃にあい負傷。何とか逃げおおせるが、そこに謎の女・葉子(白本彩奈)があらわれ、治療のために医者の場所と金をダンボールの覗き窓に差し入れて去っていく。“わたし”は罠だと思いながらも、葉子の美しく理想的な足が脳裏から離れず、医者の元へ向かってしまう…という物語。

 安部公房による1973年の同名小説を原作として、『狂い咲きサンダーロード』『逆噴射家族』などの石井岳龍監督が映像化した作品。27年前、石井監督が石井聰亙の名義で活動していた時代に、日独共同製作予定されていたのが、クランクイン前日に中止となってしまった映画企画だったそうです。そのお蔵入りとなっていた企画が、安部公房生誕百周年となる2024年に公開されるという、非常にドラマティックな作品の状況も話題となりました。
 
 自分としては、安部公房は最も好きな作家の1人なので、観に行かない手はありませんでした。ただ、その作風は非常にわけわからん世界を描いており、その「わけわからなさ」を楽しむものだと思っているので、映像化は難しいだろうとは思っていました。正直、期待しないで観ようと臨んだのですが、予想以上に安部公房という作家の世界をしっかりと映像化している作品であり、そこに驚きと感動がある映像体験となっていました。
 
 原作は、読んでいるのが遥か昔というのもあるし、安部公房作品は破綻し過ぎているのが特徴でもあるので、読んでも細かい所まで記憶に残ってはいませんでした。ですので、事前に再読してから鑑賞したのですが、これが大正解で、「わけわからなさ」をいかに映像化で解釈しているかが、より深く理解できるものになったように思えます。原作未読、あるいは覚えていない状態で観ている人は、かなり理解しにくい作品だったかもしれません(読んでいるから理解しているわけでは決してないですが)。ただ、「理解出来ない」のも正しい安部公房作品の楽しみ方なので、それも正解と言えるとも思います。
 
 こう書いていると、前衛的で全くエンタメしていない映画のように思えますが、前衛的ではあるけれどもきちんとエンタメ要素も多分に含まれた作品であるのも事実です。何といっても、箱男のキレある動きによるアクションは、映画的なダイナミズムに溢れていて、これは原作小説では味わえない臨場感になっています。走れば速いし、回転するし、飛び蹴りまでかます箱は、見た事のない映像です。そして、そのムダにキレのあるアクションを箱男がやることで、バカバカしさにも繋がっているんですよね。安部公房作品の醍醐味である、わけわからないことを大真面目に語っているのでバカバカしく感じてしまう面白さみたいなものが、ここで再現されているように思えます。ダンボール箱の異常な硬度も笑えます。何で潰れないんだよ。
 
 そのアクションがたっぷり展開されるのが、中盤の箱男VS贋箱男の場面なんですけど、ここに箱男が誰なのか、誰しもが箱男なのかという現実とも妄想ともつかない不可思議な演出を差し込むのも、原作を読んでいると痺れるものがあります。原作では全て箱男が記した手記という形で進み、途中途中でその手記に他人と思われる人間が手を加えた文章が差し込まれることで、その後の文章も本当に同じ「箱男」が書いているのか、判らなくしているんですよね。これをそのまま映像にするには無理があるんですけど、それをこういう演出で再現するのも、よく編み出したものだと思います。そして、とても映画的に作品のテーマを表現していて、この映画のハイライトになる重要シーンでした。
 
 さらに、原作の忠実な映像化ではありますが、2024年に映像化されたことで描いていることの意味合いも現代に響くものになっているように思えます。原作小説では、箱男の存在は路上生活者、いわゆる「ホームレス」と呼ばれる存在がイメージの源泉だったと思うんですよ。社会から外れてしまい、奇異や哀れみの目を向けられる存在が、逆に我々を覗いている存在という「見る/見られる」の反転として描いているように思えるものでした(この解釈が正しいかは自信ありませんが)。
 けれども、2024年に箱男という存在を当てはめると、スマホ画面でネットの情報を見ては、匿名という箱を纏ってひたすらに自分語りを綴り、時には罵詈雑言を書き散らす多くの人々と重なる部分が大きくなります。匿名という箱を纏っていても、そこに書かれた言葉は多くの人の目に触れる可能性があるもので、時には開示請求で身元が明かされる怖れもある=いつでも覗かれている存在となっている現代人と同様の存在に思えます。「箱男」という存在は現代の方が、異端の者ではなく、より多くの人に共感される者に思えてきました。
 
 とはいえ、さすがに現代を舞台にするには古すぎる内容である部分もちらほらありました。何といっても、ヒロインの葉子の描写は前時代過ぎる感じはありましたね。安部公房作品の女性がそういう扱いではあるので、致し方ない部分ではありましたが、性欲の象徴でしかなく、彼女自身の人間性が見えてこないのも原作通りであり、ここは逆に忠実であるが故の物足りなさもありました。結末部分での彼女の選択は、原作では呑み過ぎてベロンベロンになった飲み会終盤のような描写を、よりわかりやすくはっきりとしたものとして描いているように思えます。これを葉子という人物の意志としているようですが、ちょっと言い訳に過ぎないように思えます。意志がある人なら、普通は浣腸を頼まれても断るでしょうに。
 
 全般的に小説よりも、「見る/見られる」の関係性、贋物の本物に対するコンプレックスなど、テーマがより現代にマッチしたことで非常にわかりやすい作品になったと思います。だからこそ、ラストでメッセージを観客に向けて発する演出は蛇足だったようにも思えます。それがなくとも我々に向けての視点は充分に伝わるものでしたから。
 ただ、安部公房作品も面白さ(=わけわからなさ)のピークを越えて、終盤でダラダラとする展開が多いので、この蛇足でダラダラする感じも、安部公房的なものの再現にはなっているので、これも正解という気もします。生誕百周年を祝うに相応しい映像作品でした。


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