映画『オッペンハイマー』感想 浮き彫りになる核兵器への認識のズレ
祝オスカー受賞! とはとても言う気になれないけれど、作品としては評価されてしかるべきものでした。映画『オッペンハイマー』感想です。
カイ・バードとマーティン・J・シャーウィンによるノンフィクション書籍『オッペンハイマー』を原作として、『インセプション』『インターステラー』『TENET テネット』で知られるクリストファー・ノーランが監督を務めた作品。昨年の夏にアメリカでは公開されていましたが、日本ではなかなか公開が決まらず、今年のアカデミー賞を総ナメにしたところで、ようやく公開となりました。唯一の被爆国である日本で上映せず、アカデミー賞受賞で世界の評価がある程度定まったところで、日本公開というのも何かモヤモヤするものがありますよね。日本側の配給会社が手を挙げなかったっぽいですが、何とも情けない話です。
ノーラン作品は絶賛するわけではないけれどもチェックしたくなる監督だし、何よりも祖母が広島出身の被爆者である被爆三世の自分としては、観ておかなければならない作品でした。
今作は、ノーラン作品だと『ダンケルク』のような硬派な史実ものですが、時系列バラバラなシーンを交互に見せるのも『ダンケルク』で使われた手法です。オッペンハイマーの学生時代から原爆開発をしていくパート、戦後に共産主義を疑われ尋問を受けるパート、そしてオッペンハイマーの失脚を画策するルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr)を描くパートを並行して描いています。観慣れていない人にはごちゃついたものに感じられるかもしれませんが、『ダンケルク』よりも、よほどわかりやすく効果的な脚本演出になっているように感じられました。
後半の山場に原爆実験の場面が配置されることにより、きちんと物語が最高潮を迎える形になっているし、これを時系列通りにやってしまうと、前半で大きな出来事が起こり、その後はずっと大人が会話する政治の話になって、エンタメとしては盛り上がらない作品になってしまっていたはずです。きちんと史実のドキュメント部分を描きつつ、それを作劇で巧く魅せる脚本になっているんですよね。
それに加えて、ノーラン特有の漫画的演出が、展開をわかりやすく演出しています。留学先でオッペンハイマーが研究を続ける姿と、何かよくわからない化学現象の映像を交互に見せるカットで、水を得た魚のように才能を開花させていくという表現描写は、すごく漫画的な省略の仕方になっていて、科学知見がなくとも理解(した気に)させるというのも、とても作品をポップに仕上げている効果があるものです。
オッペンハイマーという人物像も、キリアン・マーフィーの演技がハマっています。宮崎駿監督『風立ちぬ』の堀越二郎とよく似た立ち位置のキャラクターに思えますが、マンハッタン計画が軌道に乗っているときのオッペンハイマーの描写は、むしろ『風立ちぬ』で好き放題に二郎に要求をしてくる軍部の人間によく似ています。眼がバッキバキで明らかに尋常ではないハイな状態になっていて、才能が発揮されていると同時に、人智を超えたものを生み出す人ならざる者という描き方にもなっているように思えました。
オッペンハイマーに悔恨の念があったのは事実だろうし、ここまでアメリカ映画がヒロイズムに酔うことなく核兵器の事実を描いたという意味だけでも、価値があることだとは思います。ただ、自分としては良くも悪くも、日本とアメリカの核兵器に対する認識の差に大きな隔たりがあることを実感させるものでした。
公開前から批判されている、広島・長崎の原爆描写がないという点は、本作はきちんと認識をしつつ描かないという選択をしていると思います。あくまでオッペンハイマーの視点でしか描いていない作品なので、オッペンハイマー自身はそれを直視していないし、原爆が使用された結果としてしか認識していないはずです(それ自体が非難されるべきことというのは、まあそうですが)。
ただ、その視点はそのままアメリカの原爆に対する視点とも言えます。原爆により大量に人が死んだ事実は認識しているものの、どんな人々が、どんな風に死んでいったのかまでは見ようとしていないんですよね。
オッペンハイマーが、自ら生み出した兵器の恐ろしさに震えているのは、大量の人間を殺せる兵器である事と、それを生み出せる技術が他の国々に伝播していく事、各国が核装備をして際限なくエスカレートしていく未来を憂うものとなっています。もちろん、それも恐るべきことで、現在進行形で憂慮すべき問題ですが、それはある意味、あくまで一兵器に対する恐ろしさとして感じているに過ぎないように思えます。
日本の原爆を描いた物語として中沢啓治の漫画『はだしのゲン』、こうの史代の漫画『夕凪の街・桜の国』『この世界の片隅に』、そして片渕須直監督によるアニメ映画『この世界の片隅に』があるわけですが、『オッペンハイマー』で描かれた原爆との一番の違いは、「放射能」というものの恐ろしさだと思うんですよね。
もちろん、一瞬で大量の人間を痕跡も残すことなく燃やし尽くす爆発の威力も恐ろしいものですが、それよりも生き残った人々も殺し、次の世代にも悪影響を残して苦しめた原爆症を生み出す放射能というものが、核兵器の恐ろしさの象徴であると思います。
日本で描かれる原爆の作品は、唯一の被爆国でもある故に、この恐ろしさを避けられないものとして描いていますが、今作ではそれに対する言及がほんのごく僅かでしかないんですよね。原爆の死者数の内訳として触れられたのみでした。
これはノーランの描写不足とか、『オッペンハイマー』という作品が劣っているということではなく、アメリカの原爆に対する認識がそうなっているという事実であると感じました。日本とは決定的に認識のズレがあるということなんだと思います。
そういう考えがあると、史実部分であったり、フィクション部分であったりするところにも、ちょっと怒りが湧いてきてしまうところも出てきます。原爆を作ったからには使わなければならないという方針で、あっさり日本に決まる場面なんか、史実もこうだったのだろうとは思いますが、あまりにも何の考慮もされていなく感じられる軽いものに見えてしまいます。
さらに、オッペンハイマーが原爆開発をしたという呵責を、不倫相手のジーン・タトロック(フローレンス・ピュー)を追い詰めてしまった呵責と重ねるというのはフィクション的な演出なんですけど、ちょっとナメてんのかと言いたくなってしまいますよね。その罪が同等なもののわけないだろと。
極めつけは、オッペンハイマーが自分の講演で興奮する人々に、核の炎で焼かれる幻覚を見る場面です。女性の顔が爛れるところは、ノーラン監督の娘が演じているそうですが、まあこの時代もあるし、家族・同胞が焼かれる可能性を考えて罪悪を実感するというのも理解出来ますが、はっきり言えば反吐が出る胸糞悪いものとムカつきを感じてしまいます。結局、自分の身の周りの近しい人々に累が及ぶことでしか、恐ろしさを感じられないのかと。自分を始めとする日本人もそういうのものではあるとは思いますが。
まあ、そうはいっても「赤狩り」を描いた政治劇としてシンプルに面白いというのは事実です(題材が題材なので、面白くするということにも批判されるのもわかりますが)。
何よりも、核を生み出した事実を功績ではなく恐怖として描いた本作にアカデミー賞を与えたことが、画期的ではあるし人々の意識を変える契機の1つになるのかもしれません。戦後から79年も経っているのに、テクノロジーの発達に比べて、意識の変化はあまりにも遅すぎるとは思いますが、牛歩のあゆみでも確実に変わっているのは事実だと感じます。
2002年のフジロックに出演したパティ・スミスがアメリカ人とし原爆を使用したことを謝罪したことがありますが、個人的に恩義のようなものとして感じているものです。この感覚がもっと広まることを願っているし、一刻も早く核を使用しない、核廃棄される世界になることを望みます。
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