作られた英雄? 源義経

 はい!やってまいりました。孝太の雑録。

 今日は源義経(以下義経)についてお話ししたいと思います。義経といえば、真っ先に浮かぶ言葉が「判官びいき」。または兄頼朝に疎まれ、命を落とした悲劇のヒーロー。これが一般的だと思います。僕も学生の頃はそう思っていました。
 しかし、手塚治虫さんの火の鳥で描かれている義経は、それとは真逆の解釈をしていました。当時、それを見て衝撃を受けた僕は、別の観点でも義経について見るようになりました。今回はその話を中心にお話ししようと思います。

1 判官びいきの語源

 Wikipediaによると判官びいきとは

判官贔屓(ほうがんびいき)とは、第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた[1]同情や哀惜の心情のことであり[2]、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」心理現象[3]を指す。「判官」の読みは通常「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは伝統的に「ほうがん」と読む。

となっております。この語源に従うのであれば頼朝は、義経の人望を妬み、自分の保身のために無理難題を吹っ掛けた挙句、討滅した悪い兄のような解釈になっておりますが、史実は違うようです。

2 実際の義経

 では、ここからは実際の義経について書いていきます。
 壇ノ浦の戦いでは水軍が優れているという平氏に対し、直接戦うのではなく、水夫を狙うという通常では考えられないやり方で、勝利しました。素晴らしい軍略により勝利したと語り継がれていますが、よく考えれば卑怯な手ですね。
 これだけではなく、実際義経は軍略については優れていたようで、他の戦いにおいても奇策で勝っていました。
 しかし、政略についてはお世辞にも優れていたとは言えなかったようで、当時の朝廷からの任官については、棟梁の同意を得るという習いをあっさり破り、後白河法皇からの検非違使任官をあっさり受理しています。これは平氏亡き後、力をつけてきた源氏の発言力、政治力拡大を恐れた後白河法皇が、源氏の力を弱めるために行った策略にも関わらず、義経はあっさり乗ってしまった事になります。
 また、この件についても義経が鎌倉に謝罪に向かった際、頼朝が面会を拒否したら、今度は後白河法皇から頼朝追討の院宣を受け取ろうとしたという事実が残っています。
 手塚治虫さんの火の鳥によると、義経はかなりの野心家であり、常にのし上がることを考えていたようで、武家の統制に心を割いていた頼朝に対して寧ろ対抗していたフシさえありました。
 かと言って政治力はなかったようで、検非違使として京にいた際も部下の苅田狼藉(庶民への略奪行為等)を止めることも無く、治安維持をしていた記録は残っていません。また、家来が最愛の人の死を悲しんでいる事に対し、冷酷な言葉を投げかけている描写すらあります。
 伯父、行家のサポートを受けながら頼朝に完全に敵対した義経ですが、状況は芳しがらず、最終的に奥州の藤原秀衡の下に落ちのびます。ここで庇護を受けますが、秀衡の死後、鎌倉の頼朝の圧力に屈した秀衡の子、泰衡に衣川の戦いで暗殺され、31年の一生を終えました。
 ちなみに火の鳥では、義経は馬鹿にしていた家来に裏切られ、殺されるという終わり方になっています。なお、この家来のその後は不明とされていますが、頼朝側に投降し、最終的には伊達朝宗(伊達政宗の先祖)の麾下に入ったと思われます。
 そして、その泰衡も同じ年に頼朝による奥州征伐により誅殺され、奥州藤原氏は滅亡しました。

3 奥州藤原氏について

 ここからは余談になります。 
 義経の庇護者とされる藤原秀衡は、実はこの時期、頼朝に対抗できる力を持っている唯一の人物でした。一般的な認識では立場の弱い義経を守った好人物と言われていますが、実は義経を利用し、いずれは自分が頼朝を斃し、国の頂点に立つつもりだったのかもしれません。しかし、病気によりその野望は頓挫し、泰衡には家の安泰を第一に、万一のときは義経の暗殺も含めての策を病床の折に伝えたとも考えられます。
 泰衡は頼朝の圧力に屈した臆病者と見られていますが、大河ドラマ「炎立つ」では、国や家族、家臣を大事に思う武将として描かれており、頼朝や義経との関係に苦悩しています。こちらのほうが泰衡の実像に近いのではと、僕は勝手に思っています。

4 おわりに

 というわけで、今回は源義経についてお話しました。評価について意見の分かれる人物であり、書く内容は難しかったですが、面白かったです。このような企画は、機会があればまたやりたいですね。

 今日はここまでとします。最後までお読み頂きありがとうございました。

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